画像引用元:映画.com『クィア QUEER』フォトギャラリー(画像18)より引用(著作権は The Apartment S.r.l., FremantleMedia North America, Inc., Frenesy Film Company S.r.l. に帰属します)
(原題:Queer / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 137分 / ルカ・グァダニーノ監督 / イタリア、アメリカ合作)
※本記事は映画『クィア/QUEER』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
ルカ・グァダニーノ監督による本作は、ウィリアム・S・バロウズの原作『クィア』をもとにした作品だ。
薬物中毒でアメリカに居られなくなったリー(ダニエル・クレイグ)は、メキシコの町でクィアの仲間たちと夜な夜なバーを巡ったり、行きずりの男と刹那的な関係を結ぶような日々を送っている。
そんなある日、リーはひときわ目立つハンサムな男・ユージーン・アラートン(ドリュー・スターキー)と出会い、一目惚れする。
彼との距離を縮めたい一心で、リーはあれこれ画策するのだが、彼もまた「クィア」なのかはわからないままだった。
不器用な男、リー
リーは身なりもよく、会話はどこかインテリ風。しかし、その内面は自己肯定感の低さでいっぱいだ。
アラートンとの関係でも常に下手に出て、そっけない態度をとられては心底傷つき、それでもまた彼を求めてしまう。
アラートンも完全に拒絶するわけではなく、気まぐれに夜を共にする。その“余地”があるからこそ、リーは泥沼から抜け出せない。
リーの言葉の節々には、アラートンをどうにかして引き止めたいという気持ちがにじみ出ている。
「このバーの権利を半分買おうかと考えている。君はここのツケがかなりあるって噂だ。そうしたら僕のことを無視できなくなるだろう?」
「僕は付き合うのに難しい相手じゃない。週に2回優しくしてくれたらそれでいい。」
こんなコミュニケーションしかできない恋愛、うまくいくわけないよ!と、鑑賞中はまるで友人の不健全な恋愛相談に乗っているような気分になるが、
これはまさに自己肯定感が低いまま恋愛に突入するとどうなるかの典型とも言える。
テレパシーという幻想
物語後半、リーは「テレパシーが使えるようになる薬草、ヤーへ」を求め、アラートンと共に南米へ旅に出る。
表向きは学術的な探究心のように装っているが、真の目的は明白だ。――アラートンの心の奥を知りたい。言葉を超えて、どうにか彼と通じ合いたい。
そんな切実な願いが、リーを幻想と現実の狭間へと誘っていく。
ジャングルの奥地で出会った学者に幻覚剤を与えられたリーは、幻の中でついにアラートンの声を聞く。
「僕はクィアじゃない」――。リーは、ただ一言「知ってたよ」と返す。
テレパシーなんて使わなくても、答えはとうにわかっていた。アラートンがリーを愛することはない。それでも、諦めきれなかった。
分かり合いたかった。ただ、それだけだった。
作中、二人の間に“通じ合い”の瞬間は一度も描かれない。誰の目にも、アラートンにその気がないのは明らかだ。それでもリーは彼にしがみつく。
愛ではなく、執着であり依存かもしれない。それでもなお、彼の心に触れたいと願っていた。
幻覚の中で、二人の体は溶け合う。境界が曖昧になり、リーは一瞬だけ「一つになれた」と感じる。
けれど、それはただの幻だ。気持ちは結局最後まで通じ合わなかった。
体は交わっても、心は遠いままだった。――所詮、それまでの関係だったのだ。
原作と映画の相違点
今作はちょっとしたセリフや展開まで、原作をなぞるように丁寧に忠実に描かれている。とはいえ、いくつか印象的な違いも存在する。
もっとも大きな違いは、原作ではヤーへ(幻覚作用のある薬草)を見つけられないまま、リーとアラートンが別れてしまう点だ。映画のような幻覚体験や幻想的な描写はなく、現実的で乾いた終わり方になっている。
その他にも、個人的に気になった相違点を2つ挙げたい。
① アラートンのカメラを取り戻すエピソードがカットされている
原作には、アラートンが質に入れたカメラをリーがお金を出して取り戻すというくだりがある。このシーンでは、アラートンのリーに対する嫌悪感や警戒心がより露骨に描かれており、リーの痛々しさが際立つ。映画ではこの展開が省かれており、そのためアラートンの冷たさばかりが目立ち、リーの執着が少しだけ美化されて見えるようにも思った。
② ラストの銃撃シーンは映画独自のもの
映画オリジナルの改変として、リーが夢の中でアラートンを撃つというシーンが加えられている。これは、バロウズ自身がかつて妻を誤って撃ち殺してしまった事件をモチーフにしたものであり、彼が作家となった原点でもある。この出来事については『クィア』の序文にも触れられており、映画はその“始まり”をラストに配することで、バロウズという作家の誕生を映像的に示唆しているようにも感じられる。
このように、本作は原作へのリスペクトを保ちつつ、監督ルカ・グァダニーノならではの視点を加えることで、より自伝的で、映像作品としての力を持った一作に仕上がっていると言える。
終わりに:誰かを愛するとき、人はより孤独になる
正直、鑑賞前は「君の名前で僕を呼んで2」的な、瑞々しくも甘いボーイズ・ラブ路線かと少し身構えていた。だが、そんな予想は良い意味で裏切られた。
CGや幻覚的なビジュアル表現、そしてどこか作り物めいたセット調のメキシコの街並み。
それらが物語が終わりに近づくにつれて現実と幻想の境界を曖昧にし、物語はまるで意識の底をふわふわと漂うような、抽象的でファンタジックな世界へと観客を誘う。
帰り道にリーを置いてジャングルの中へ消えていくアラートンの姿は、彼の存在さえもリーの夢だったのでは?と思わせるような余韻が残る。そして物語の最後に残されたのは、ただひとりの中年男性の、触れられなかった愛と、どうしようもない寂しさだけだった。
本作は、恋愛の形を借りながら、実のところ孤独について語っていると思った。
そしてこの孤独な男、リーは――言うまでもなくウィリアム・S・バロウズその人だ。
バロウズは晩年、カンザスの町でひとり静かに暮らしたという。
そして本作には、監督ルカ・グァダニーノ自身の孤独も重なって見える。
公にゲイであることを明かしている彼にとって、この物語はただの原作の映像化ではないだろう。“通じ合えなかった愛”に囚われ続ける男の姿に、自身の影を投じているのかもしれない。
『クィア/QUEER』は、バロウズの痛みとグァダニーノの孤独が交差する、ひどく私的で、ひどく切実な一作だ。
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