Left After the Credit: 思惟のフィルムノート

アート系・インディペンデント系の海外映画を中心に、新旧問わず感想や考察を綴っています。

【ネタバレあり】見えない痛みを見つめて―映画『リアル・ペイン〜心の旅〜』感想

画像引用元:映画.com『リアル・ペイン 心の旅』フォトギャラリー(画像18)より引用(著作権は Searchlight Pictures に帰属します)

(原題:A Real Pain / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 90分 / ジェシー・アイゼンバーグ監督 / アメリカ)

※本記事は映画『リアル・ペイン~心の旅~』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。

 

ジェシー・アイゼンバーグの監督・脚本第2作。全編軽快な会話劇とコメディタッチの展開に包まれながらも、物語の核にあるのは、ジェシー・アイゼンバーグのユダヤ人としてのルーツ、町が内包する歴史的な痛み、家族の愛憎、そして他人の「見えない痛み」だ。

 

旅の始まり――疎遠になった従兄弟との再会

ニューヨークで広告関係の仕事をするユダヤ人のデイビッド(アイゼンバーグ)は、かつては仲が良かった従兄弟ベンジー(キーラン・カルキン)と再会し、ホロコースト生存者であり、最近亡くなった祖母の故郷・ポーランドを巡るツアー参加すべく旅に出る。

ベンジーは誰とでもすぐに打ち解けるようなムードメーカーでお調子者。対してデイビッドは真面目で空気を読むタイプ。性格の対比が、2人の関係や会話に軽やかなユーモアを生み出す。
タイトルの “Real Pain” には「面倒な奴」という慣用句の意味がある。物語冒頭では、デイビッドにとってのベンジーがまさにその存在のように描かれる。しかし、物語が進むにつれ、2人が抱える“文字通りの”「本当の痛み」に私たちも触れていくことになる。

 

ベンジーが見つめる歴史の「痛み」

ツアーの中で2人は、ホロコーストの記憶が刻まれた地を訪ね歩く。ベンジーは言う。

「こんなツアーで一等車に乗るなんて皮肉じゃないか?」
「墓地をデータみたいに語るのはやめてくれ。ここには本物の人が眠っているんだ。」

観光として消費される歴史、生活圏に溶け込んだ収容所跡――一見して穏やかな街並みの中に埋もれている“痛み”を、彼は繰り返し問いかける。

 

告白される「見えない痛み」

旅の途中、ベンジーに振り回され続けて疲弊したデイビッドは、他のツアー参加者もいるレストランで感情を爆発させる。

「僕もベンジーのことが大好きだ。憧れてる。でも同時に大嫌いなんだ。」

なんと、ベンジーが半年前に自殺未遂をしたからだというのだ。ホロコーストを生き延びた祖母がいて、自分たちが今こうして生きているのは“奇跡”なのに――。
その苦しみを家族でも共有しきれないもどかしさ。デイビッド自身も強迫性障害の薬を服用している。
周囲のツアー仲間たちは「そんな風には見えない」と言うが、それこそが“見えない痛み”なのだ。

 

何も起きない「奇跡」

旅のクライマックスで2人は祖母のかつての家を訪ねるが、期待していたような感動的な出来事や心の動きは起きない。普通の家だからだ。
2人はせめてもの想いでユダヤ人の慣習に従って家の前に石を置くが、向かいの住人に「つまずくからどけてくれ」と言われてしまう。
静かなユーモアに包まれたこのシーンは、現実の厳しさと向き合う彼らの無力さを示しているようだ。

 

旅の終わり――ベンジーの横顔が語る未来

帰路、空港でデイビッドはベンジーを自宅の夕食に誘う。しかし彼は断り、空港に残って人間観察をしたいと言う。
ふざけた理由に聞こえるが、ラストカット、空港のベンチでキョロキョロするベンジーの横顔には“あのお調子者”の面影はなかった。

最後まで痛みの理由は明かされない。劇的な救済もない。

それでも彼は、これからもその痛みと共に生きていくのだ。
まるでワルシャワの街が、歴史の痛みを忘れないように。

 

終わりに:それぞれの“リアル・ペイン”と、見えなかった誰かの痛みへ

本作は、ワルシャワという町が抱える“歴史的な痛み”が、現代の風景に透過され、見えなくなってしまっている様を描くと同時に、ベンジーという一人の人間が抱える“個人的な痛み”もまた、明るい振る舞いの裏に隠れ、誰にも気づかれずにいることを静かに映し出す。
この2つの“痛みの見えなさ”が巧みに対比されており、それはこの映画の構造の美しさであると同時に、私たちが日々忘れてしまいがちな――それでも、とても重要で普遍的なリマインダーとしても機能している。

目の前に広がる町や、ふとした会話の中に隠された人々の事情に、少しでも目を向けようとすること。
その行為自体で何かを変えることは叶わなくても、私たちが“せめてできる”大切な姿勢なのかもしれない。

個人的な話になるが、筆者は幼いころ、双極性障害を抱える叔母と同居していた。
小学生だった私には、彼女の病状などについてははっきりとは知らされていなかったが、何となく心の病であることは感じ取っていた。
普段は優しく丁寧で穏やかな人だったが、何の前触れもなく突然、入院してしまうことが何度かあった。

私の知らない時間、私の入れなかった部屋の中で、彼女はどんなふうに痛みと向き合っていたのだろう。

事情のない人なんて、いないのだ。

 

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