画像引用元:映画.com ウィッチ : ポスター画像より引用(著作権は Witch Movie, LLC に帰属します)
(原題:The Witch / The VVitch: A New-England Folktale / 2015年製作 / 2017年日本公開 / 93分 / ロバート・エガース監督 / アメリカ)
※本記事は映画『ウィッチ』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
宗教の名のもとに森の奥地へと追いやられたある家族。ロバート・エガースの初長編監督作 『ウィッチ』は、魔女の伝説を借りながら、信仰、抑圧、性、そして少女の自由への渇望を描いた異端のホラー作品だ。
父の“正しさ”と崩壊の始まり
物語は家族が村を追い出される場面から始まる。詳細には語られないものの、父ウィリアムが宗教的に“清すぎた”からだというのだ。 だが彼の正しさは、家族に対する愛よりも信仰を優先し、結果的に家族全員を孤立と破滅へ追いやってしまう。
赤ん坊の消失と、信仰の崩壊
物語の冒頭、長女トマシン(アニャ・テイラー=ジョイ)が目を離した隙に弟サミュエルが忽然と消える。 これは魔女が赤子の脂肪を飛行軟膏としてすりつぶしているという、恐ろしくも伝統的な伝承によるものだ。
この出来事が、家族にとって「神は我々を守ってはくれない」と悟る転換点になる。 そこから、信仰と理性は徐々に崩れ、家族は互いを疑いはじめる。
魔女とは何か?
この映画における“魔女”は、単なる恐怖の象徴ではない。 それはむしろ、トマシンが生きる世界――“女であるだけで罪とされる社会”からの解放の象徴として描かれている。
彼女は初潮を迎えたことで、「奉公に出す」などと言われ、家族から“所有物”として扱われる存在になっていく。家族に不幸なことが起き続けると、「お前が悪魔と契約したからだ」と責められ信用してもらえない。
そんな中で唯一「お前の望みはなんだ?」と問いかけてきたのが、悪魔=ブラック・フィリップ。 神は命令しかしないが、悪魔は“選ばせてくれた”。 魔女とは、自由を自分の手で掴んだ女たちのメタファーとも言える。
ブラック・フィリップ=悪魔であり“自由の代理人”
黒い山羊、ブラック・フィリップ。彼はただの家畜ではなく、悪魔の化身=サタンそのものとして描かれている。
ブラック・フィリップが父親を角で串刺しにするシーンは、 神を信じて家族を見殺しにした者への象徴的な処刑でもあった。
「Wouldst thou like to live deliciously?(魅惑的な暮らしを望むか?)」とトマシンに囁く声は、 彼女にとって初めて「自分の意志を問われる」瞬間だった。
それまで「娘」「姉」「女」というラベルのもとに生きてきた彼女が、 “自分の意志を、自分の声で語れる存在”になった瞬間でもあった。
魔女になるという救済
家族が全滅し、一人で森に取り残されたトマシン。 彼女が魔女となり、血だらけになった服を脱ぎ捨て、裸の身体で空へと浮かび上がっていくあのラストは、 まるで重力、家父長制、神、すべてからの解放を祝う儀式のようだった。
だがそれは同時に、共に笑い合う者もいない孤独な自由のはじまりでもある。
終わりに:聖なる抑圧か、邪悪な自由か
『ウィッチ』は、女性であること、従順であること、信じるふりをすること――それらに疲れ果てたすべての人に、 “Wouldst thou like to live deliciously?”という問いを投げかけてくる。さて、あなたは?
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