画像引用元:映画『ミステリアス・スキン』公式サイトより引用(著作権は MMIV Mysterious Films, LLC に帰属します)
(原題:Mysterious Skin / 2004年製作 / 2025年日本公開 / 105分 / グレッグ・アラキ監督 / アメリカ)
※本記事は映画『ミステリアス・スキン』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。作品の特性上、児童の性被害についての記述がありますのでご留意ください。
2025年に20年越しに日本で公開された『ミステリアス・スキン』を劇場で鑑賞した。鑑賞中は淡々と進んでいくように見えたが、映画が終わって劇場が明転し、現実に引き戻された瞬間、体が重くなった。それは、この映画が今の日本で公開されることの意味の重さをひしひしと感じたからだ。
2人の少年に残された傷
物語の中心にいるのは、わずか8歳のころに同じ野球のコーチから性被害を受けたニール(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)とブライアン(ブラディ・コーベット)。
彼らの傷は目に見える形ではなく、それぞれまったく異なるかたちで心の奥に抜けない棘のように残っている。
記憶を塗り替えるブライアン
ブライアンは、無意識のうちに自らの記憶を書き換えていた。性被害の記憶をUFOに誘拐されたという架空の物語にして信じ込むことで、自分が受けたあまりにも過酷な現実から目を逸らそうとしていた。そのまま受け止めるには、幼い彼にとってあまりに耐えがたい出来事だったからだ。
愛と錯覚するニール
一方のニールは、幼いころからゲイであることを自覚し、10代になると男娼としての生活を送るようになる。その行動は、かつてコーチから受けた性的虐待をなぞるような自傷的な行動にも見える。父親が不在だったニールにとって、コーチは“自分を選んでくれた魅力的な大人”に映った。流行のゲームを持っていて、母親が買ってくれなかったコーンフレークを一緒に撒いて遊んでくれた――そんな“理想の大人像”と性的支配が結びついてしまった結果、ニールはその感覚を追い続け、壊れていくしかなかった。
彼は自分の傷から目を逸らすように、「コーチは自分を愛してくれていた」と思い込もうとしていた。
“普通の生活”に戻れない苦しみ
ブライアンは、夢の中で何度も“UFOに誘拐された”幼少期の記憶を繰り返し見るようになる。その真実を探るため、テレビ番組で紹介されていた“何度も宇宙人に誘拐された”という女性・アヴァリンに話を聞きに会いに行く。
彼は夢の中に“もう一人の少年”がいることを伝え、それが真実への鍵だとアドバイスをもらう。地元の図書館で野球チームの集合写真を見つけたブライアンは、そこに夢で見た少年――ニールの姿を見つける。
アヴァリンと何度か会ううちに、彼女はブライアンに好意を寄せるようになるが、彼はキスや性的な接触を拒絶する。彼の中にある未自覚のトラウマが、性的な行為を受け入れられない形で表れていた。ニールを探す過程で出会った友人・エリックも「彼からは性的な匂いがしない」とニールへの手紙に記していた。ブライアンは、まだ“真実に触れていない被害者”でありながらも、その無意識の拒絶反応を通して、周囲の人間は彼が抱えている何かに気づき始めていた。
ニールは高校卒業後も地元で男娼としてふらふらと生きていたが、先にNYへ渡っていた友人ウェンディを追うように町を出る。NYでもしばらくは同じような生活を続けていたが、ウェンディの助言で“普通の生活”を始めようとサンドイッチ屋で働き始める。
それでも体を売ることはやめられなかった。自分の価値をそこにしか見いだせなかったのかもしれない。夜の街に身を投じる姿は、まさに過去の呪縛から逃れられない悲しみそのものだった。
そしてある夜、悪質な客に暴力を受け、血を流すほどの傷を負ってしまう。しかし彼は誰にも何も言わない。助けを求めず、ただ沈黙の中でひとり涙し、痛みを抱え続ける。その姿には、深い孤独と絶望が滲んでいた。
二人の再会
ニールとブライアンは、ニールのクリスマスの帰省に合わせて再会する。
ブライアンは「君と一緒に宇宙人にさらわれた」と手紙を送っていたが、ニールはすでにその“真実”を理解していた。
2人はかつてあの暴力が行われたコーチの家へ向かう。今は別の家族が住んでいるその家に侵入し、ニールはソファに座って静かに当時の出来事を語り出す。
やがてすべてを思い出したブライアンは、ニールに寄り添いながら震え出す。ニールもブライアンを抱きしめながら、「愛だと思い込んでいた暴力」が、本当は何だったのかに気付いていく。
この再会が彼らにとっての救いであったようにも見えるが、カメラが2人からゆっくりズームアウトしていくラストカットは、回復への道のりがまだ遠いことを静かに示していた。
映画に込められた怒り
作品の中で、コーチへの直接的な怒りや報復は描かれない。だが、2人の壊れた人生そのものが、加害者に対する静かで確かな怒りとなっていた。
あの暴力が奪ったものの大きさ。声をあげられずに過ぎていった年月。そして、心の再生がどれほど困難なことか――。そのすべてが、この映画の奥底で燃えている怒りとして伝わってきた。
コーンフレークの違和感
特に印象に残るのは、8歳のニールとコーチがコーンフレークを撒き散らして遊ぶシーンだ。一見、子どもらしい無邪気な遊びのようでいて、そこには強烈な違和感がある。
甘くて軽くてカラフルな、アメリカの幸福の象徴のようなコーンフレーク。でもあれは、壊された日常の残骸であり、偽物の優しさであり、ねじれてしまった記憶の象徴だった。
俳優たちの繊細な演技
ジョセフ・ゴードン=レヴィットとブラディ・コーベットの演技は、難しい役柄にもかかわらず、どこまでも繊細で圧巻だった。
無垢な笑顔を浮かべるブライアンの内に秘めた混乱や恐怖。自信ありげな態度の奥に痛みを抱えたニール。
特にラスト、ブライアンが震える姿にそっと寄り添うニール。言葉ではなく、ただ互いが存在することが救いになるような演技が、強く心に残った。
終わりに:2025年に本作を観ることの意味
この映画が2025年の日本で公開されたことは、偶然ではない。配給側の「今の日本でこそ、この作品を届けなければならない」という強い意思がそこにはある。
この作品を見ると、誰もが日本でのあの出来事を思い出してしまうだろう。
ジャニー喜多川氏による長年にわたる性加害の構造と、重なる部分があまりにも多いからだ。
権力を持つ大人による加害。子どもが声を奪われ、傷を隠し、自らの中に“嘘の記憶”を作ってまで生き延びようとすること。そしてその結果、自分を責め、存在を消してしまいたいほどの痛みを抱えること。
『ミステリアス・スキン』は、その行為が実際に横行していたであろう2004年にそれを描いた作品だ。
声を奪われた子どもたちがいたということ。その傷が“今も続いている”ということ。
そのことを私たちは、もうこれ以上見て見ぬふりをしてはいけない。
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