画像引用元:映画.com『サブスタンス』フォトギャラリー(画像25)より引用(著作権は UNIVERSAL STUDIOS に帰属します)
(原題:The Substance / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 142分 / 監督:コラリー・ファルジャ / フランス・イギリス・アメリカ合作 )
※本記事には映画『サブスタンス』のネタバレはありません。(予告やあらすじから分かる範囲の設定などについては記載しています。)また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
美醜に囚われた女の話では、終わらせない
『サブスタンス』を“中年女性が若さを渇望して暴走するホラー”としてだけ観るのは、あまりにももったいない。
この映画が描いているのは、「若くて美しくなければ、女は存在すら許されない」という、この社会の根深い価値観への怒りだ。
ラストのショッキングな描写は決して悪趣味な演出ではなく、その怒りを観客に理解させるために、必要不可欠だったと断言する。だって、これくらいしないと、この叫びに誰も本気で目を向けてくれないでしょう?
映像の“ビジュアル”で殴ってくる
かつて栄華を誇った女優・エリザベス(デミ・ムーア)は50代になり、自分の看板番組だったエアロビ番組を降板させられてしまう。そんな中、「サブスタンス」という、より良い自分の分身を生み出せる薬品を偶然手に入れる。ただしそこには、母体と分身は7日ごとに交代しなければならない、というルールがあった。
若く美しい自分の分身・スー(マーガレット・クアリー)は、エリザベスの代わりにエアロビ番組の顔となり、テレビ局の会長にも気に入られるが、次第に暴走しはじめ……。と、正直、起こる出来事はこのあらすじから予想できる範囲内に収まる。
だが、それを彩るビジュアルと構図、そしてラストの“阿鼻叫喚”シークエンスは、想像のはるか上を行く。これぞまさにカルト映画。2020年代のカルト代表作とついに出会った、と筆者は興奮した。
- テレビ局の赤い廊下:スタンリー・キューブリックの『シャイニング』に登場するホテルの廊下を思わせる廊下は、まるで“産道”。血のように赤く塗られたその空間は、新たな地獄の入り口/出口と化している。
- 黄色いコート:物語全体の中もひときわ目立つエリザベスの黄色いコート。この社会から排除される存在の“警告色”として機能している。
- 横たわる裸体たち:スーの若さは、エリザベスが居なければ維持できない。“美しさ”とは、自分自身をすり減らして得る、限りあるエネルギーなのだ。そして、それを供給するために、女たちの裸の身体はまるで無機質な“補給装置”のように無造作に横たえられる。
キューブリック的な計算された構図と、クローネンバーグ的なボディホラーを継承しながら、それらを美醜というテーマとここまで上手くリンクさせた映画は、他に例がないだろう。
エビを手で食べる会長
序盤、会長がエリザベスにクビを言い渡しながら、エビを手づかみでむさぼる異様なシーンがある。
それは、若さや美しさを「資源」として貪る者たちの象徴だ。
丁寧に調理された料理ではなく、優雅な会食でもない。ただの“捕食”。
捕食後に残るのは空っぽになったエビの抜け殻だけ――まるで、若さや美しさを搾取された後の女のように。
デート前に増幅する醜形恐怖
個人的に最も胸が詰まったのは、エリザベスが偶然再会した同級生とのデートの準備をするシーン。スーの看板と、鏡の中に映る自分を見比べてしまい、何度もメイクをやり直す。露出していた肌をストールで隠したり、時計を見ながら行ったり来たりして、結局デートに行けなくなってしまい、過食に走ってしまう。
わかる。本当にわかる。
私もデート前に、美容系YouTuberのメイク動画を観ながらメイクをし、スマホの中のかわいい女の子と鏡の中の自分を見比べて、メイクを施してもなお醜いままの自分を呪ったことが何度あったか。そしてそのデート後にコスメを大量に購入してしまう、これさえあれば美しくなって、もっと愛してもらえる、と信じて。
そうした自己嫌悪ゆえの過食も数えきれないほど経験した。
だからこそ最後に彼女が、飲み込むのではなく“吐き出す”もの(*ネタバレ注釈*1)に大いに笑ったと同時に感銘を受けた。あれは女性らしさからの解放であり、ある種の昇華なのだと思う。
“時代”が無いからこそ普遍性が際立つ
作中にはスマホは出てくるが、SNSは登場しない。スーが年越し番組の司会を務めるくだりも、一体何年の年越しなのかは語られない。
このように時代設定を曖昧にすることで、本作は「これは今に始まった話ではない」ということを観客に印象付ける。
ルッキズムやエイジズムという言葉が生まれる前から、女たちは“若さ”と“美しさ”によって価値を測られ、消費されてきた。『サブスタンス』は、その根深い暴力に対して、時代を超えて痛烈な批判を叩きつける。
なぜデミ・ムーアはアカデミー主演女優賞を取らなかったのか?
『サブスタンス』でデミ・ムーアが見せた演技は、単なる“カムバック”ではなかった。
それは「過去に消費されたスターが、その構造を批判する存在として蘇る」という現実と虚構の融合だった。
若さと美しさと愛を渇望する中年の女優を演じることで、自身のキャリアを鏡に映し出した。
その姿は痛々しくも切実で、時に滑稽で、しかし限りなく真実に近かった。
ヌードや異形の姿も惜しみなく見せ、体当たりとしか言いようがない演技を見せている。
にもかかわらず、彼女はアカデミー主演女優賞を逃し、『アノーラ』の若く美しいマイキー・マディソンが受賞した。
それは、この映画が告発している構造が現在進行形であることを象徴していると言える。
何たる皮肉!!
*注:『アノーラ』は筆者も大好きな作品ですし、上記の文章に『アノーラ』およびマイキー・マディソンを批判する意図は一切ありません。
おわりに:これは警告であり、鎮魂であり、叫びだ
『サブスタンス』は、暴力的なまでに美しい映像とショッキングな展開の中で、ショービジネス界、そしてこの社会全体における“女性搾取の構造”を何一つ隠すことなく描いている。
これは中年女性が欲望のままに美しさを取り戻そうとする悲劇の物語なんかじゃない。
“女性は若さと美しさを失った瞬間に人間とすら認められなくなる”という、この社会の異常性を暴く物語だ。
最後の血の一滴まで、この映画はその異常性を観客に見せつけている。
応援の気持ちで1日1回
クリックいただけると嬉しいです📽️
*1:モンストロ・エリザベスーが吐き出す乳房のこと