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【ネタバレあり】その転落の責任は、誰の手に―映画『ガール・ウィズ・ニードル』感想

画像引用元:映画.com『ガール・ウィズ・ニードル』フォトギャラリー(画像18)より引用(著作権は NORDISK FILM PRODUCTION / LAVA FILMS / NORDISK FILM PRODUCTION SVERIGE に帰属します)

(原題:Pigen med nalen / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 123分 / マグヌス・フォン・ホーン監督 / デンマーク・ポーランド・スウェーデン合作 )

※本記事は映画『ガール・ウィズ・ニードル』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。

 

『ガール・ウィズ・ニードル』は、1920年代のデンマークで実際に起きたある事件をもとに描かれた作品だ。だが本作は、事件そのものよりも、一人の女性の転落劇を主軸に据えている。そして彼女がその事件と交差したとき、観客である私たちもまた、その事件の裏にある大きな問題に向き合うこととなる。

 

あらすじ

第一次世界大戦が終わろうとしていたデンマーク。貧困にあえぐ若き女性カロリーネは、戦地から戻らぬ夫を待ちながら裁縫工場で働いていた。ある日、夫の戦死を理由手当を求めるも証拠がない為却下される。その後恋仲となった工場長にも妊娠を告げた後に見捨てられてしまう。
重なる絶望の中で出会ったのは、里子支援を名乗る老女ダウマ。彼女のもとで働き始めたカロリーネは、やがて赤子殺しという衝撃の事実に直面する。沈黙と共犯のはざまで揺れながら、彼女が最後に選んだ道とは——。

 

誰もが少しずつ、手を汚していた

ダウマはもちろん一切の擁護もできない加害者だが、彼女一人を責めるだけでは、あの事件は語れない。未婚の母たち、貧困から赤子を放棄せざるを得なかった女性たち、それを強いた男性たち、そしてそれらすべての者を見て見ぬふりをした社会。さらには、社会もまた、戦争という巨大な暴力に選択肢を奪われていたという現実。
この映画は、事件の責任をダウマひとりに押しつけず、カロリーネの転落劇を通して、バタフライエフェクト的に「皆が少しずつ手を汚していた」構造そのものを暴く。戦後社会の制度不備、貧困、孤立。そういったものすべてが、あの凄惨な事件の真の加害者となっていたのだ。

 

顔に傷を負った帰還兵の夫・ペーターの存在

本作は女性の身体や抑圧を描くと同時に、男性もまた戦争によって“社会から外れてしまう”ことを提示している。カロリーネの夫・ペーターは無事に帰還するものの、戦争で顔に重傷を負い、マスクで傷を隠しながら、サーカスの見世物小屋で働いている。彼の姿は、「一度社会から外れてしまった人間が、いかに居場所を失っていくか」を体現していた。ここに、作品の“男女問わず社会から疎外された人間の生きづらさを描く中立性”が垣間見える。

 

ラストに残された、わずかな“希望”

物語の最後、カロリーネはダウマの元で同居していた“娘”だというエレナを孤児院から引き取る。その行為には、贖罪と、かすかな救済の意志がにじんでいた。それは、搾取され、窮地に追い込まれ続けてきた彼女が、ようやく少しの希望を見出した瞬間でもあった。

 

“聖人ではない”彼女の選択

カロリーネはダウマの連続赤子殺しの被害者であり、同時に共犯者でもある。戦争から帰還した夫を冷たく拒んだかと思うと工場長との関係も上手くいかなかったためにまた夫の元に戻ったり、ダウマに反発しながらも依存したり、その彼女の行動は一見矛盾だらけだ。だが、そうした不完全さこそが人間らしさを感じさせる。それだけ彼女には余裕がなかったのだ。
ラストの彼女の選択もまた、正しかったかはわからない。ただ、それが彼女に残された唯一の自分への許しだったのではないだろうか。
カロリーネをただの被害者や同情の対象とせず、一定の距離を保ちながら描く物語のまなざしは、観客に思考の余白を残す効果を生み出しており、本作の大きな美点になっていると思った。

 

モノクロ映像と音が生み出す、鈍い痛み

本作は全編モノクロで撮影されており、その閉鎖的で陰鬱な映像が、登場人物たちの抑圧された日常を象徴している。公衆浴場での人工中絶や赤子殺しなどの凄惨な現場も色彩を排することで過剰な描写を避け、観客の想像力に委ねる演出となっていた。また、赤子の泣き声、ハエの羽音、大きな木の扉が閉ざされるような音楽など、音の使い方も印象的だ。視覚を抑えることで、聴覚的な不穏さが増幅されていた。

 

おわりに:物語が私たちに突きつける針

『ガール・ウィズ・ニードル』は、連続赤子殺し事件という衝撃的な題材を扱いながらも、その背後にある戦争や社会の闇に静かに光を当てる。これは誰か特別な人の物語や歴史上の話ではない。声を上げられなかった、もしくは声を上げてこなかった同じこの社会に生きる「私たち」の物語でもある。
冷たいモノクロの映像と痛みを残す音響が、目と耳に焼き付く。そして、物語が突きつける現実の針の感触が、今もちくりと残り続けている。

 

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