画像引用元:映画『異端者の家』公式サイトより引用(著作権は BLUEBERRY PIE LLC. に帰属します)
(原題:Heretic / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 111分 / スコット・ベック監督、ブライアン・ウッズ監督 / アメリカ・カナダ合作)
※本記事は映画『異端者の家』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。作品の性質上、宗教について言及しておりますが、ある特定の宗教や信仰を批判する意図はございません。
ヒュー・グラントがこれまでのイメージを覆す悪役を演じたことでも話題の『異端者の家』は、密室サイコスリラーの形式をとりながらも、実のところは宗教と信仰をめぐる知的なディベート劇である。宗教と信仰という欺瞞について討論していきながら、最後には祈りの意味を提示するという、なんとも思考を揺さぶられる作品だった。
あらすじ:閉じ込められた信仰心
モルモン教(正式には末日聖徒イエス・キリスト教会、アメリカ発祥のキリスト教系新興宗教)の宣教師として布教活動をしているシスター・バーンズ(ソフィー・サッチャー)とシスター・パクストン(クロエ・イースト)は、ある日リード(ヒュー・グラント)の家を訪れる。最初は親切そうに見えたリードだが、次第に会話は不穏な空気を孕み始め、やがて彼女たちは家から出られないという異常な状況に追い込まれていく——。
嘘を信じ続けることが“信仰”なのか?
リードは2人に言う。「妻が中でパイを焼いているから上がって」と。しかし、家には妻などいなければパイの香りもアロマキャンドルによるフェイクだった。さらには「いつでも帰っていいよ」と言いながら、玄関は中からも開けられない構造になっていた。
リードが仕掛けるのは“嘘だとわかったあとでも信じられるか”という信仰への挑戦だ。
そしてリードはモルモン教にも嘘があると2人に語る。かつてモルモン教で行われていた一夫多妻制は「時代的に信徒を増やすために必要だった」と説明されているが、実際には創始者ジョセフ・スミスが自らの欲望を正当化するために神の啓示を持ち出して教義としたのではないか、と。
さらにリードは問いかける。「聖書は“人間は皆、偽りを語る”と教えているのに、なぜ君たちは“啓示を受けた”という人間の話を信じるのか?」
“家”という構造が示すもの
この家自体が宗教そのもののメタファーなのだと思う。外側は親しげで、皆気軽に入ってしまうが、一歩踏み込めばそこには無数の仕掛けがあり、抜け出すのは容易ではない。
例えば作中でも登場するモルモン教の「魔法の下着」も、その仕掛けのひとつと言えるだろう。
これは単なる下着ではなく、信者の「信仰の証」であり、日常生活の中で常に身につけることが求められる。それを脱ぐことは信仰の放棄に等しく、信者が教義から精神的に“逃げられない”状況にしているのだ。魔法の下着は、身体と信仰を結びつけて支配する装置とも言える。
リードの論破集(抜粋)
- モノポリーの起源
今や世界中で遊ばれているボードゲーム「モノポリー」は、実は1904年にエリザベス・マギーが考案した「地主ゲーム(The Landlord's Game)」が元になっている。これをチャールズ・ダロウが無断で改変し、「モノポリー」として売り出すことで大成功を収めた。マギーの存在は歴史から消され、長らく彼が発明者とされていた。
リードはこの話を宗教の歴史に重ねる。ユダヤ教→キリスト教→イスラム教という系譜もまた、“オリジナルの教え”が再編・拡大されながら継承されていく構造であり、信仰とは新たな包装をまとった“反復”にすぎないのでは?と問いかける。
そして彼は続ける。「ユダヤ教はいまや信者は世界の0.2%しかいない。なぜか?セールスマンである宣教師がいないからだ。君たちのように、教えを広めるための戦略を持っていないからだ。」
実際、ユダヤ教は他宗教のように積極的に改宗を勧めない。むしろ希望者を一度は断るのが習わしで、「本当に信じたい人だけが入ればいい」という内向的で慎重な姿勢をとる。“広げる”宗教ではなく、“守る”宗教だ。
対してモルモン教は、本作でも登場するように若者に2年間の宣教師活動を義務づけ、一軒一軒訪問するような超実践的マーケティングを展開している。
信仰すら、拡散されなければ消えていく。売り方次第で“真理”が負ける世界。それを語るリードの論法は皮肉に満ちていて、思わずゾッとさせられる。
- 『Creep』パクリ問題=宗教の反復構造
Radioheadの『Creep』はThe Holliesの『The Air That I Breathe』の盗作だとしてThe Holliesに訴えられた。さらに今度はRadioheadがLana Del Reyの『Get Free』を『Creep』の盗作だとして訴訟を起こしたのだ、とリードはシスターたち話す。
つまり、“元曲 → 派生 → さらに派生”という構造が盗作と訴訟を繰り返しながら正当性を主張していくという奇妙なループになっている。
記憶にも似た話があるとリードは言う。人が何かを思い出すとき、実際には“最後にそれを思い出したとき”の記憶を辿っているにすぎない。そうして記憶は劣化し、再構築されていく。この構造は、まさに宗教そのもの——ある過去の信仰のコピーが“本物”として再定義されていく歴史と重なる。果たしてそれは信じるに値する“本物”なのか?とリードは問いかけているのだ。個人的にここの論旨は特に興味深いと共に大いに笑えた。ヒュー・グラントが超テキトーにCreepを歌い出すシーンは爆笑必至だし、そのあとにCreepをアコースティックバージョンでしっかり流す制作陣の悪ノリ(そしてトム・ヨークの寛大さ)にも拍手したい。
避妊インプラントについて
リードはシスター・バーンズの腕の傷から避妊インプラントの存在を見抜き、彼女がモルモン教の禁欲の掟を破っていたのではないかとシスター・パクストンに突きつける。しかし、避妊インプラントは生理痛や子宮内膜症の緩和など医療的理由で使う人も多い。それを「セックス目的だ」と断定するのは、あまりに短絡的で男性的な視点。
このワンシーンだけでも、リードの支配欲と偏見が色濃くにじんでいた。彼の語る宗教批判や知性の仮面の下には、結局のところ他者を断罪し、従わせたいだけの独りよがりな欲望が潜んでいると言えるだろう。
それでも、祈りは美しい
リードは言う。「唯一の絶対的な宗教は“支配”だ」と。宗教とは、結局のところ人を従わせるためのツールにすぎない、と彼は断言する。その言葉通り、リードは復活の奇跡をトリックを使って再現して見せたり、地下には大勢の女性を檻に入れて支配し、まるで自らが“新たな宗教”を作り出したかのように振る舞っていた。ただのマンスプレイニングおじでは済まされない、完全な犯罪者だったのだ。
だが、死の淵で、シスター・パクストンはリードにこう告げる。
「祈りには効果はないと科学的な実験で証明されているわ。それでも、誰かを思って他人のために祈るという行為は美しい。たとえあなたのような人が相手でも」
これはこの映画の中で最も人間的で、心に残るセリフだった。
「効果がないこと」にも「意味がある」という逆説的な真実。
宗教や信仰が嘘にまみれており、反復ばかりで、間違っていたとしても——そこに「他人を思う気持ち」があるなら、それは美しい。それが救いをもたらさなくても、現実を変えられなくても、他人の幸福を願う“祈り”という行為そのものが、宗教の最大の存在価値であるだと思う。
リードの人間像
彼の宗教への執着にはただの悪意や揶揄以上のものがあるように思えた。
かつては何かを信じていたが、教会やそれを取り巻く人間に裏切られたのかもしれない。あるいは、救いを求めるあまりに、それが叶わないことで、神を信じられなくなったのかもしれない。
「頭が良すぎると信じられなくなる」という不幸がそこにはあるように見えた。
まるでサンタクロースの存在や占いのように、一度“仕組み”が見えてしまえば、もう純粋には信じられない。信じることで得られたあの温かさには、もう二度と触れられない。
だからこそ、あの“奇跡”によって死ぬことは、彼にとっての救済になったのではないか、と思う。
おわりに:この映画が刺激する“問い”
本作は惨劇やホラーを期待すると、やや肩透かしかもしれない。
なぜなら、言葉の応酬と信念のせめぎ合いこそが最大の見どころだからだ。
宗教とは?信仰とは?祈りとは?
こんなにもまっすぐに知的好奇心を刺激されるタイプの映画は、なかなかない。
そして私は今日もCreepを聴く。たとえパクリだと知っていてもね!
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