画像引用元:映画『ノスフェラトゥ』公式サイトより引用(著作権は Focus Features LLC. に帰属します)
(原題:Nosferatu / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 133分 / ロバート・エガース監督 / アメリカ)
※本記事には映画『ノスフェラトゥ』のネタバレはありません。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
ロバート・エガースによる『ノスフェラトゥ』は、1922年のF・W・ムルナウ監督作の2度目のリメイクである。オリジナルは「ドイツ表現主義」の総合とも言うべき作品であり、光と影の剥き出しのような強調を通じて、登場人物の感情や内面の悪を視覚化してみせた。今作でもその表現は引き継がれながら、チェコでのチェスキー・クルムロフ城のロケや、今時通常ならCGで処理されるであろう狼や大量のネズミなど、本物の動物を使用した演出が施され、徹底的に作り込まれた美しいゴシック・ホラーに仕上がっている。
物語はエレン(リリー=ローズ・デップ)を中心に据え、吸血鬼ノスフェラトゥとの運命的なつながりと共犯的な関係を描くことで、エガースが『ウィッチ』以降追求してきた「宗教(*ネタバレ脚注*1)と抑圧」というテーマをより深く掘り下げた一本となっている。
あらすじ
不動産業者トーマス(ニコラス・ホルト)は、上司ノックの指示で、トランシルヴァニアの城に暮らす貴族オルロック伯爵との取引のために旅に出る。伯爵の新たな住まいとして指定されたのは、トーマスの暮らす町だった。やがて彼の帰還とともに、町では謎の死や疫病が蔓延し、妻エレンのもとにも“影”が忍び寄る。オルロックは吸血鬼──ノスフェラトゥであり、彼の存在はエレンの心の隙間にも入り込んでいく。
ノスフェラトゥが象徴するもの
本作におけるノスフェラトゥは、単なる怪物ではなく、人間が抱える複数の不安の象徴として描かれている。
- 死/感染症(ペスト):オルロック伯爵の到来とともに、船に潜んでいたネズミによって町はペストに覆われていく。まるで運命の死神のように死を呼び込む存在だ。物語は1838年という設定だが、この時代に実際に大規模なペスト流行があったわけではない(有名なヨーロッパでの大流行は14世紀が中心である)。つまりここでのペストは、物理的な接触を超えて広がる“見えない恐怖”としての病の象徴といえる。
- 孤独:オルロック伯爵は不老不死でありながら、誰にも必要とされず、夜にしか姿を見せられない。永遠に他者とも交わることができない存在。これらは人間誰しもが避けたい孤独を象徴する設定と言えるだろう。
- 欲望:オルロック伯爵がエレンの深層にある欲望を見抜くような描写は、当時はタブーとされた女性の性的欲望を可視化する存在=社会や男性にとっては恐怖であり、脅威としての側面を持つ。
ノスフェラトゥは、私たち一人ひとりが抱える「見たくない感情」──抑圧や孤独、死への不安──を映し出す鏡のような存在なのかもしれない。
すれ違う夫婦の物語
エレンの変容や呪いの描写は衝撃的であるが、その根底には“夫婦のすれ違い”という物語がある。
トーマスは「出世のため、お金のため、新しい家のため、つまりは二人のため」などと言いながら、エレンの「行かないで」という想いを無視し、出張に出てしまう。そしてそれが、彼に数々の恐怖と悲劇をもたらす。
象徴的なのがオリジナルにもあったトーマスがエレンに花を贈るシーンだ。花束を手渡されたエレンが「なぜ殺したの?」とトーマスに問いかける。彼女が望んでいたのは“花”ではなく、“そばにいてくれること”だった。まるで『木綿のハンカチーフ』の歌詞のようなすれ違いだ。
そのすれ違いの隙間に、ノスフェラトゥがするりと入り込んでくる。彼は侵略者であると同時に、エレンの精神的な共鳴者でもある。
『ウィッチ』との共通点
本作は、エガースの長編デビュー作『ウィッチ』とも強い共通点を持つ。“孤独な女性に寄り添う闇の存在”としての「悪」の描き方だ。
『ウィッチ』では、長女トマシンが家族から疎外され、ブラック・フィリップの囁きによって“契約”を結び、自由を得る。
今作では、夫に置いていかれたエレンが、自身の精神の不安定さに理解のない別の男、フリードリヒ(アーロン・テイラー=ジョンソン)の家に預けられる中、ノスフェラトゥに“自分を見てくれる存在”“迎えに来てくれる者”としての気配を感じる。
女性の孤独に最も優しく反応してしまうのが「悪」である──エガースはそうした構図を、“解放”として描いている。
リリー=ローズ・デップの演技
本作は、エレンを演じたリリー=ローズ・デップの存在を抜きには語れない。
揺れ動く感情、悪夢と現実の狭間で悶える姿、死を見つめる生気のない目──そのどれもが繊細でありながら芯の強さを持ち、観る者を引き込んでいく。彼女なしでは、この物語のレイヤーやゴシックな世界観は成立し得なかっただろう。
彼女の姿をスクリーンで観るのはナタリー・ポートマンと共演した『プラネタリウム』以来だったが、本作で大きな飛躍を遂げたように感じられた。父のジョニー・デップも鼻が高いはず。
ロバート・エガースの作家性
『ノースマン』などの過去作でも見られるように、エガースは歴史や神話、民間伝承を素材に、“ある世界の終焉”を描くことに長けている。
本作でも、静かに広がる死の気配、孤独と運命の収束、宗教と科学との対決──そのすべてを重層的に織り込み、「すでに決まっていた悲劇」を壮大に語り上げた。
時代考証と映像美への徹底したこだわりもさらにスケールアップしており、それが本作にも単なるホラー以上の深度をもたらしていた。まさに、エピック!
おわりに
『ノスフェラトゥ』は、すれ違いの果てに闇に寄り添われてしまった女の魂の記録であり、そして「悪」とされてきた存在が、実はもっとも誠実に人間の孤独に反応していたのではないか──という物語だったように思う。
この悲劇を観終えたあともしばらく心に引きずってしまうのは、きっと私自身のなかにも、エレンのように「欲望を見抜いてほしかった誰か」が眠っているからなのかもしれない。
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*1:宗教は本作の明確なモチーフではないが、乙女の犠牲によって悪を退けるといった価値観の裏には、宗教的な構造が色濃く漂っている。