Left After the Credit: 思惟のフィルムノート

アート系・インディペンデント系の海外映画を中心に、新旧問わず感想や考察を綴っています。

【ネタバレなし】誰が彼らを止めるのか?それが問題だ―映画『我来たり、我見たり、我勝利せり』感想+考察

画像引用元:映画.com『我来たり、我見たり、我勝利せり』フォトギャラリー(画像13)より引用(著作権は Ulrich Seidl Filmproduktion GmbH に帰属します)

(原題:Veni Vidi Vici / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 86分 / ダニエル・ヘースル監督、ユリア・ニーマン監督 / オーストリア)

※本記事は映画『我来たり、我見たり、我勝利せり』のネタバレはありません。予告などの前情報からわかる内容などについては記載しています。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。

 

ぴあの抽選に当選し、監督お二人のトークショー付き試写にて鑑賞。(なんと贅沢な!ぴあさんありがとうございます!)6/6(金)公開です。人間狩りが趣味の富裕層一家についてのブラックコメディドラマ。彼らは違法行為を続けているにもかかわらず、誰も止めようとしない。警察も司法もマスコミも沈黙する世界で、反則した人が悪いのか、それを見逃した人が悪いのか?——そんな問いが作品を通して突きつけられる。

 

資本主義社会の覇者・マイナート家

物語の中心にいるのは、一見人当たりが良く、善良そうに見える超富裕層のマイナート家。父親アモンは堂々と無差別に人間狩りを行う連続殺人を趣味にしている。アモンが殺人鬼であることは、動物狩りをしている一般人や記者にバレ始めているにもかかわらず、彼らの声を誰も聞こうとしない。資本の“信用(Credit)”が、そのまま人間としての“信用(Trust)”へとすり替わってしまう世の中であることが描かれている。

作中でアモンが口にする「創造的破壊」という言葉も印象的だ。これは経済学者ヨーゼフ・シュンペーターが提唱した概念で、古い構造を壊して新しい成長を生むという資本主義のダイナミズムを肯定的に捉えたものだが、アモンはそれを文字通りの「破壊」として捉え、無差別殺人を社会の刷新とすり替えているようにも見える。その引用の仕方自体が、まさに資本主義における倫理観の崩壊を象徴しているようだった。

 

本当の意味での「無敵の人」

娘のパウラは父の姿を見てこの構造を学んで行き、無邪気に、そして自然に父の価値観(倫理観の欠如)を継承していく。最初は万引きなどの軽犯罪に手を出すが、親にも社会にも何のお咎めも受けなかった彼女の言動はエスカレートしていく。しかも彼女はまだ13歳で少年法に守られているため、父以上に無敵な存在だ。

この家族の姿は、現代における“本当の意味での無敵の人”を体現している。資本主義の頂点に立ち、どれほど倫理に反していようが罰せられることのない“上流国民”と呼ばれる存在だ。

“上流国民”と聞いて思い返されるのは、2019年に東京都池袋で起きた自動車暴走死傷事故だろう。高齢の元官僚が運転する車が暴走し、母子を含む複数人が死傷するという痛ましい事件だったが、逮捕が見送られたことから「上級国民だからではないか」という強い世論の反発を呼んだ。この作品で描かれる「誰にも裁かれない特権階級」という構造と、重なって見える。

こうした「無敵の人」が守られている作中で印象的だったのが、アモンと記者がそれぞれ直面するシーンだ。アモンが警察に「自分が狙撃犯だ」と訴えてもまともに取り合ってもらえず、まるで現実味のない冗談のように流されてしまう。また、アモンの悪事を暴こうとしていた記者までもが、このような彼らの持つ“無敵”の力を目の前にして魅入られ、家族に取り込まれてしまう。このような描写はブラックなユーモアに満ちていながらも、同時に戦慄させられる。

 

フィクションを超えてゆく地獄

監督がトークショーで引用していたが、トランプはかつて「私が5番街の真ん中で誰かを撃っても、私の有権者は離れない」*1と豪語していた。支配者たちがいかに無敵で、搾取される側の人間が“いつか自分も彼らのようになれるかも”と信じて無意識に崇拝し、支持している現実が今の世界にはある。

他にも監督は現実に居るアモンのような存在の例としてトランプに加えイーロン・マスクの名前を挙げていたが、正直彼らは本作のさらに一歩先を行ってしまっている。劇中でのマイナート家は、自分と違う人種の養子を育てていたり、妻は人権を守る為の国選弁護士をしており、いわゆるリベラルな富裕層だ。一方で、トランプやマスクは、マイナート家のような“リベラル富裕層の偽善や欺瞞”を批判し、「Woke(過剰なリベラル思想)」を揶揄することで、大衆の怒りやフラストレーションを巧みに吸い上げている。このようにあたかも労働者階級の代弁者であるかのように振る舞うことで、自身も富裕層であるにもかかわらず、大衆からの支持を集めている。

実際、この富裕層(=支配者)たちの言動は、社会にさらなる分断や差別、そして搾取をもたらすだけであり、そうした構造のなかで支持者自身が報われることはない。本当に立ち上がり、怒るべき対象は、その構造そのものだ。多数派の大衆は自分が被害者になることなどあり得ないと信じている。自分がサイクリング中にアモンに撃たれたり、5番街でトランプに撃たれる可能性があるとはまるで思っていないのだ。だからこそ構造は温存され、支配者は笑いながらその力を行使し続ける。

 

美しさが助長させる不気味さ

グロテスクな題材に反して、豪邸を映した明るめのトーンの映像やクラシック音楽の演出がとても美しく洗練されており、心地のよさすら感じた。こうした劇中で実際に起こっていることとそのルックの不釣り合いさが、この映画の不気味さをさらに際立たせている。そしてそれはこの資本主義社会そのものだ。綺麗にラッピングされた社会のパッケージの中では、知らぬ間に貧富の格差が拡大し、一部の者だけが富と権力を独占している。

そして、このかっこいいタイトルはカエサルの「来た、見た、勝った(Veni, vidi, vici)」の引用だが、実際にはマルボロのパッケージから着想を得たらしい。吸えば健康を害するとわかっていながら、そのかっこよさから手にしてしまい、一度吸い始めると手放せない——そんなマルボロのパッケージは、大衆が富裕層を崇拝する構造のメタファーのようだ。

 

おわりに:資本主義社会に銃を突きつけるアート映画

『我来たり、我見たり、我勝利せり』は、現代社会における「資本と倫理の断絶」、そして“無敵”な支配者層の存在を、風刺とユーモアを交えながら鋭く描いた作品だ。極端な設定ではあるものの、そこに描かれている構造は私たちが日々暮らす現実そのものであり、ただの寓話では終わらない。

作品自体はコンセプトが明快で、難解な要素はほぼない。ただし、最終的に何かが解決したり、カタルシスのある展開はないため、好みが分かれるかもしれない。

ラストで観客に問われるのはただひとつ、「あなたはこの後どうするか?」ということだ。マイナート家のような存在になるために彼らを崇拝し続けるのか、それともあなたも銃を手に取るのか——突きつけられた問いは重く、簡単には飲み込めない。私はこういった観た人に判断をゆだねるような突き放す終わり方が大好きなのでとてもお気に入りの一作となった。

トークショーで監督がおっしゃっていたのだが、この作品はオーストリアの公共資本で作られたものらしい。民間ではなく公的な資金でここまでラディカルな表現が実現されているということに、感服した。資本に支配された社会において、アートだけがその構造を可視化し、揺さぶる手段になり得るのかもしれない。

ミヒャエル・ハネケやリューベン・オストルンドが好きな人には強くおすすめ。そして監督の今後の作品にも大いに注目したい。

 

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