画像引用元: 映画.com『MaXXXine』フォトギャラリー(画像13) より引用(著作権は Starmaker Rights LLC に帰属します)
(原題:MaXXXine / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 103分 / タイ・ウェスト監督 / アメリカ)
※本記事は映画『MaXXXine マキシーン』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
本作は『X エックス』『Pearl パール』に続く、タイ・ウェスト監督によるホラー三部作の完結編である。今回は『X』の主人公であるマキシーンの6年後を描き、彼女がハリウッドでスターを目指すなか、連続殺人事件や過去の因縁に直面していく様子が描かれる。
鑑賞前に『X』と『Pearl』を再見した。各作品の再鑑賞時の感想はFilmarksに。『Pearl』は2023年のベストにしており、偏愛している。
『MaXXXine』の感想:結論から言えば、正直あまりノれなかった。
物語の舞台は1985年のロサンゼルス・ハリウッド。ポルノ業界で活動していたマキシーンがホラー映画の主演に抜擢され、スターの道を歩み始める。背景には、当時アメリカ社会を騒がせたオカルトや悪魔崇拝をめぐるモラル・パニックが描かれており、また、マキシーンの父がおそらく福音派系のテレビ伝道師であったことも示唆される。
実際に1980年代のホラー界を象徴する『13日の金曜日』にも出演していたケヴィン・ベーコンが本作に登場しており、他にも当時のハリウッドやホラー映画へのオマージュが随所に見られる。時代の空気感や美術の再現度は高く、世界観はよく作りこまれていた。
しかしながら、脚本面で気になる点が多く、100分という上映時間でさえ冗長に感じられた。
ミステリーとしての緊張感の弱さ
最も気になったのは、物語構造そのものにおける緊張感の欠如である。
マキシーンのもとに、『X』の撮影時のポルノ映像や学生時代の卒業アルバムのコピー(今とは異なるファミリーネームで記載されている)が届き、犯人は誰なのか?というミステリー調の展開が続く。
しかし本編冒頭で、幼少期のマキシーンが父とともに “I will not accept a life I do not deserve.” とカメラに向かって発声練習をしているホームビデオのような映像が挿入されているため、犯人は父親だと観客は早々に察してしまう。にもかかわらず、マキシーンがその犯人を追う姿を長く引っぱる構成には正直ため息が出た。
さらに、マキシーンと父親の関係性についての描写が不足しているのも問題だと感じた。『X』のラストでも、父がテレビ伝道師であり、彼への反発がマキシーンの行動の動機の一端であることは示唆されていた。だが、本作に挿入される幼少期の映像では彼に従順な様子が描かれ、しかも大人になった現在も、彼の言葉を人生のモットーとして持ち続けている。なぜ彼から逃げるに至ったのか、その心情や経緯は描かれず、人物像に奥行きが生まれていない。
テレビ伝道師の娘という出自ゆえ、学校で孤立したり、夢を応援されなかったりといった背景は想像に難くないが、それを観客に委ねて済ませてしまうのは描写としては弱い。『Pearl』では、パールを抑圧する母にも事情や苦悩があることが描かれ、それによって物語に厚みが生まれていた。マキシーンの父にも、あれほど大きな役割を担わせるのであれば、もう少し語らせてほしかった。
メタ発言の違和感
本作には、シリーズ全体を俯瞰するようなメタ発言が登場人物の口から発せられる。
「ホラー映画の主演ではスターになれないよ」と友達からマキシーンにかけられるセリフは、おそらくミア・ゴスに重ねられている。彼女は本シリーズでマキシーンとパールを見事に演じ分け、確実に知名度と評価を得たが、主要な映画賞では顕著なノミネートもなかった。そのことへの皮肉とも取れ、ジャンル映画が軽んじられがちな現状に対する批評としては納得できる。
しかし、それとは別に、マキシーンが作中で主演する映画の監督(エリザベス・デビッキ)が「これはA級のアイディアのB級作品よ」と自嘲的に言うシーンには違和感を覚えた。おそらくこのトリロジーそのものを指しているのだろうが、それをわざわざ作中の映画監督の口を借りて言わせるというのは、タイ・ウェストの自己言及として見えてしまい、アイロニーとして機能しているというよりも、観客の目線を先回りして牽制しているように映ってしまい、美しくないと感じた。
本シリーズの構想は十分ユニークであり、『Pearl』などはまさにそのアイディアが完璧に昇華された傑作である。それを自ら「A級のアイディアのB級作品」と言ってしまうのは、批評性ではなく防衛線に見えてしまった。
パールとの対比で見えてしまう「願望の軽さ」
マキシーンがスターになることに固執している様子は本作でも繰り返し描かれる。しかし、なぜ彼女がそこまでスターにこだわるのかは語られない。
一方、『Pearl』ではパールが閉鎖的な家庭や生活環境から抜け出すため、「ここではないどこか」への渇望を募らせていた。その欲望には観客の共感があり、願望に説得力が備わっていた。
対してマキシーンは、過去についても十分に掘り下げられておらず、彼女の夢がただの逃避に見えてしまう。もちろん、「スターになりたい」は普遍的な夢ではあるが、映画のキャラクターとして描く以上、それを成立させる文脈が必要ではないだろうか。
作中で引用されるベティ・デイヴィスの言葉「この業界では、モンスターとして知られるまではスターとは言えない(In this business, until you're known as a monster, you're not a star)」のとおり、確かにマキシーンは“モンスター”としてスターへの道を突き進んでいく。だが、彼女の振る舞いには起こっている出来事の凄惨さに比べると、狂気の片鱗はあまり見られず、性格はむしろ淡々としていてドライだ。
結末の軽さとメッセージの空虚さ
物語のラスト、マキシーンは父を殺し、主演作もヒットし、無事に“スター”となる。レッドカーペットを歩き、インタビューで「夢を追う若い女性にアドバイスを」と問われると、「決してあきらめないこと。大変だけど、何だってする覚悟がなきゃ」と答える。
……え? あれだけ人が死んで? それだけ? と思わず突っ込みたくなるような軽さであった。
また、『Pearl』で象徴的に登場したカカシが暗示していた“ショービズ界の搾取”構造──ジュディ・ガーランドに仮託された痛ましい成功の代償──は、本作ではついにジュディ・ガーランドの名前が明言されるに至る。
しかし、マキシーン自身もコカインを常用しながらスターの座に登り詰め、しかもそのまま「成功万歳」といったトーンで物語を締めくくってしまう。そのまとめ方には、「ちゃっかりしている」ような印象を受けざるを得なかった。構造の中で上り詰めるだけでは足りず、構造自体をぶっ壊さないといけないように思ったからだ。
お願いです。マキシーンのその後でもう1本、作ってくれませんか?
おわりに
正直、少しだけ残念と言わざるを得ない完結編だった。期待値が高まりすぎていた面も否定できないが、世界観が拡張されたにもかかわらず、描かれている内容に新鮮味が乏しかった点は大きい。
とはいえ、ミア・ゴスの存在感は本作でも圧倒的であり、特に冒頭のオーディションのシーンはFXXXingかっこよく、それだけでも観る価値はある。そして『Pearl』は、これからも自分にとって永遠の傑作であり続けるだろう。
このトリロジーは、コロナ禍の影響により『X』→『Pearl』→『MaXXXine』という順で制作された(なお、最初の2本は同時期に同セットで撮影されている)。結果的に三部作という扱いにはなっているが、構造上は『X』と『MaXXXine』が本線であり、『Pearl』はスピンオフ的な位置づけである。その意味で、“スピンオフがシリーズ最高の傑作になってしまった”という、極めて稀有なケースと言えるだろう。
それでも、もしタイ・ウェストとミア・ゴスが再び新作を手がけることがあるなら、自分は迷わず劇場へ足を運ぶつもりだ。
応援の気持ちで1日1回
クリックいただけると嬉しいです📽️
↓ちなみに『X』はなぜか今は配信に吹き替え版しかない…。
※ タグはブログ内検索リンクです。