画像引用元:映画.com『おんどりの鳴く前に』フォトギャラリー(画像12)より引用(著作権は Papillon Film / Tangaj Production / Screening Emotions / Avanpost Production に帰属します)
(原題:Oameni de treaba / 2022年製作 / 2025年日本公開 / 106分 / パウル・ネゴエスク監督 / ルーマニア・ブルガリア合作)
※本記事は映画『おんどりの鳴く前に』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
あらすじ
ルーマニアの小さな村。主人公イリエ(ユリアン・ポステルニク)は、警察官として村の交番に勤務しながらも、どこかやる気のない日々を送っている。そんなある日、村で起きた殺人事件をきっかけに、彼は村社会に根深くはびこる腐敗と汚職に直面することになる。さらに大きくなっていく悪に近づくにつれて、自分自身が長年目を逸らしてきた“加担”にも向き合うことになる。
北野映画を思わせるオフビートなノワール
公開当時は見逃していたが、幸運にも再映時に目黒シネマで鑑賞できた。
村社会とその裏にある政治の闇というテーマは特段目新しいものではないが、本作には緊張感の中に時折オフビートな笑いが差し込まれ、どこか北野映画を彷彿とさせるような空気が漂っているのが魅力と言えるだろう。
中でも印象的なのは、村長の“用心棒”として機能している司祭の存在だ。
村長がイリエの前で殺人の告白をする場面では、司祭がそれをいかにも形式的な手続きとして赦すのだが、あまりに機械的な赦しの言葉に思わず笑ってしまう。
このシーンでは、村の政治だけでなく、教会や信仰の機能すらも形骸化していることが示されている。
腐敗した社会で“信じられるもの”がどんどん失われていく中、それでも表面上は淡々と日常が続いていく――その虚無と滑稽さの入り混じった感覚こそが、この映画全体のトーンを象徴しているように思えた。
ユリアン・ポステルニクのしかめっ面の奥に宿る繊細な演技
主演のユリアン・ポステルニクの演技が圧巻である。常に仏頂面でしかめっ面のイリエの心情の変化や悲哀を、セリフの間合いや微細な表情の変化によって見事に表現しており、強く引き込まれた。彼は本作でルーマニアのアカデミー賞と呼ばれるGOPO賞で主演男優賞を受賞している。GOPO賞は常連らしいが、それも納得の演技力だ。
なぜ「おんどり」?邦題の聖書的意味
邦題では「おんどり」となっているが、実際は作中に登場するのはめんどりである。ではなぜ「おんどりの鳴く前に」というタイトルなのか?パンフレットに載っているが、それは新約聖書の「ペトロの否認」のエピソードに由来しているらしい。キリストはまもなく自らが裏切られることを悟り、最後の晩餐の席で、弟子のペトロにこう予言する。
「鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うだろう」
この出来事は、人間の弱さと信念のゆらぎ、そして状況によって揺れ動く忠誠心を象徴している。
本作の邦題はそこに着想を得ており、汚職に目をつぶれば自分の夢(果樹園)が叶うかもしれない――そんな葛藤の中で揺れ動く、イリエ自身の姿に重なってくる。しかもペトロは、キリストを一度は否認し裏切ってしまうが、復活後に悔い改め、最終的には信仰のために殉教しているのだ。弱さに一度は敗れた者が、遅れてでも信念を貫こうとする姿は、イリエの最期とも響き合っている。
そして作中では、鶏が常にイリエを冷静に見つめる視線として配置されており、まるで“内なる良心”や“神のまなざし”のように機能している。
本作は公開時に満席の回が出るほど話題になっていたが、このセンスの良い邦題の力も大きかったのではないかと思う。ちなみに原題は『善良な人々(Oameni de treaba)』という意味。皮肉の効いた、これもまた絶妙なタイトルである。
遅すぎた正義は、無意味だろうか?
物語は「目を背けていれば、自分も得をする悪に気づいたとき、あなたはどうするか?」という普遍的な問いを観客に突きつける。
イリエは田舎の交番に10年前に(おそらく)左遷されてきたような存在ではあるが、警察官を志した当初には、確かに理想や正義感があったはずだ。しかしそれも彼が退屈な田舎町に広がる悪に飲まれてゆく中で、失われてしまった。
現在の彼は、妻も子どももいないことに引け目を感じているが、せめて人生のひとつの到達点として、果樹園を手に入れたいと願っていた。そしてそのささやかな夢も、その背後にある悪に目をつぶれば、叶うところまで来た。
しかし、それまでの悪に見て見ぬふりをしてきた“ツケ”を払うかのように、未来があったはずの新人警官が殺され、思いを寄せていた女性までもが彼の元を去っていく。
それを機に彼は、ようやく立ち上がる。テキトーに羽織っていた制服をきちんと着直し、姿勢を正して、悪に立ち向かうことを決心する。
その戦い方は、決してスマートではない。だが、彼の正義感と同じく古びた拳銃を片手に、不器用にも突き進むその姿には、どこか“かっこ悪さの美学”がにじみ出る。
肥大してゆく悪に立ち向かった末の死の間際――水面に映る自分の顔を見つめながら、「思ったより悪くない」と呟くラストは、まさに「今年最高のラストシーン!」と言いたくなる余韻を残していた。
我々もまた、大きな悪を目撃したとき、背を向けず、かっこ悪かろうと戦うことができるだろうか。
――死の間際に「思ったより悪くない」と言えるような生き方を、私たちも選び直せると良い。
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