画像引用元: 映画.com『親友かよ』フォトギャラリー(画像17) より引用(著作権は GDH 559 AND HOUSETON CO., LTD. に帰属します)
(原題:เพื่อน(ไม่)สนิท / 英題: Not Friends / 2023年製作 / 2025年日本公開 / 130分 / 監督 / タイ)
※本記事は映画『親友かよ』のネタバレを含みます。ネタバレを含む章の前には注意書きを記載しています。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
タイ映画は『バッド・ジーニアス』のみ過去鑑賞済み。映画制作をする高校生の話ということで興味を持った。
あらすじ
高校3年生のペー(アンソニー・ブイサレート)は、映画コンテストで入賞すれば志望大学に推薦入学できるという条件に目をつけ、最近亡くなったクラスメイト・ジョー(ピシットポン・エークポンピシット)が書いた短編小説をもとに短編映画を制作しようとする。しかし、転校してきたばかりのペーはジョーのことを何も知らなかった。そこにジョーのかつての友人・ボーケー(ティティヤー・ジラポーンシン)が現れ、そんなペーが映画を作ろうとすることに反発しながらも、次第に協力していく。そして、ペーは映画制作を通して友情の本質と向き合っていくことになる。
学生の映画制作、そのまぶしさ
演出・構成・テーマはいずれも手堅く、特に高校生たちの演技とその実在感が素晴らしかった。ジョーを演じたピシットポン・エークポンピシットの屈託のない笑顔がキャラクターの魅力を引き立てており、自然と目を奪われる。
筆者自身も高校時代に文化祭用の短編映画を監督した経験があり、今作の映画制作パートは当時の記憶と重なって非常に胸を打たれた。完成した作品そのもの以上に、仲間たちと過ごした時間こそがかけがえのない宝物である──その感覚を、本作は見事に描いている。
また、映画制作のシーンで流れる世界中の映画監督の名前が次々に登場するオリジナルソングは、映画ファンとして非常にテンションが上がった。制作者たちの映画愛が伝わってくる、印象的な場面でもある。*1
「映画は一人で作れない」ことへの誠実な答え
本作の脚本でややトリッキーな展開となっているのが、ペーが映画化したジョーの短編が、実は闘病中で休学していたジョーの友人・オームによるものだったという真相である。ジョーは短編小説コンテストの賞金目当てで、その作品を盗作していたのだった。
その事実を知ったペーはボーケーと衝突し、学校で行われるジョーの追悼イベントでは、その短編をもとにした映画を上映できなくなる。代わりにジョーの写真を用いたスライドショー形式の映像を一晩で制作し、上映することに。
そのラストで映されるエンドクレジットには「監督:ジョーの友達みんな」と記されているのだが、その場面には非常に感銘を受けた。ペーは最初、自分の利益のためだけに映画を作り始めたが、その制作過程を通して、映画とは決して一人で作れるものではないと気づいたのだ。本作の制作陣自身もその姿勢を大切にしていることが伝わってきた。
結果として、ペーは大学入試用に当初の短編映画を提出せず、合格を逃す。しかしその選択は誠実だったと感じる。映画という総合芸術はチームの努力の結晶であり、特定の個人だけが評価されるべきではない。その意味では、入試制度自体に無理があるとも思っていたからだ。(そもそも不正の温床では…?)
とはいえ、物語としては突っ込みたくなる部分もある。学校では”パワポ映画”を上映し、入試には“オームver.”の短編映画を応募すればよかったのではないだろうか。ボーケーの「ジョーの尊厳を守りたい」という思いも理解できるが、それによってペーの将来の選択肢をひとつ潰してしまう展開には、複雑な思いが残った。
過剰な“友情推し”
本作は終始「友情って最高!」というメッセージを、さまざまな登場人物を通して多角的に描こうとしている。だが、それがあまりにも前面に出すぎていて、かえって押しつけがましさや予定調和的な印象が残ってしまった。
また、「人は誰しも善人ばかりではない」というテーマを扱う意図で登場したと思われる余命宣告を受けた同級生・オームのキャラクターも、その病気の詳細は全く語られず、ご都合主義的に見えてしまう。結果として、オームは“物語を動かすための装置”のような扱いとなり、非常に不憫に感じられた。
「友達は150人までしか記憶できない」というセリフが何度か登場するが、それが物語上で十分に活かされていなかったのも気になった。たとえば、ペーのSNSの151人目がジョーである、というような象徴的な描写があれば、より印象に残り、テーマとしても深く心に残ったのではないだろうか。
喪失と向き合うには不十分だった感情描写
個人的に本作で最も違和感を覚えたのは、ジョーの事故死の描写である。ジョーは歩いている途中、ペーに呼び止められて振り返ろうとした際に車に轢かれてしまう。観客から見れば、ペーにも一定の責任があるように思えるが、ペー自身にその認識は無さそうで、特に葛藤も描かれない。
また、目の前でクラスメイトが事故に遭う場面を目撃すれば、ペーは強いショックやトラウマを抱えるのが自然だろう。コメディ要素のある作品ゆえ、そうした重い描写は避けたのかもしれないが、それを描かないことで、かえって後から明かされる事故シーンの違和感が強まっていた。
おわりに:熱い映画だが、自分の感覚とは合わなかった
『親友かよ』は、完成度の高いエンタメ映画であり、多くの観客の心を打つ作品だろう。身近な友人を亡くした経験のある人には、また違った角度から深く刺さる作品かもしれない。
だが、自分にとっては、その“正しさ”や感動の構図がどこか居心地の悪さとして残ってしまった。友情に泣けるタイプの作品が好きな人にはフィットするだろうが、そこに少しでも立ち止まってしまうタイプの観客にとっては、脚本上の粗が目立ってしまう場面もあるように感じた。
それでも、本作がタイ映画の底力や若い才能の躍動を感じさせてくれる“熱い作品”であることに変わりはない。
*1:Wikipediaに歌詞に登場する監督がリスト化されている: 親友かよ - Wikipedia