画像引用元: 映画.com『We Live in Time この時を生きて』フォトギャラリー(画像12) より引用(著作権は STUDIOCANAL SAS – CHANNEL FOUR TELEVISION CORPORATION に帰属します)
(原題:We Live in Time / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 108分 / ジョン・クローリー監督 / イギリス・フランス合作)
※本記事は映画『We Live in Time この時を生きて』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。以下、本作に対して厳しい評価を記しておりますので、作品に強い思い入れのある方や、否定的なレビューを好まれない方はご注意ください。
あらすじ
離婚を控えたトビアス(アンドリュー・ガーフィールド)は、ある日偶然アルムート(フローレンス・ピュー)と出会う。ふたりは急速に惹かれ合い、恋仲となる。やがてアルムートに卵巣がんが見つかり、治療と並行してふたりは子どもを持つという選択をする。娘が生まれ、ささやかな日常を育んでいく中で、再び病は彼らを襲う。物語は非線形の構成をとっており、過去と現在を行き来しながら、二人の関係や人生の選択、愛と喪失の時間を描こうとしている。
結論:不誠実な作りに感じた
SNSでは絶賛レビューが多く流れている中で申し訳ない気持ちもあるが、私はこの作品の作りがテーマに対して不誠実に感じられた。以下、その理由をいくつか記していく。
時系列シャッフルに意味がない
たとえば、時系列を巧みにミックスした恋愛映画の傑作『(500)日のサマー』では、主人公トムがサマーとの日々を思い出す中で、二人のすれ違いの過程が“記憶の再構築”という形で映像に落とし込まれていた。
人は記憶を呼び起こすとき、とくに恋愛においては、必ずしも時系列通りに思い返すわけではない。恋に落ちている最中の主観的で混沌とした視点を、物語構成そのもので的確に表現していた点が見事だった。
本作も、おそらく記憶の断片性を意識して非線形構成を採っているのだと思う。しかし物語はあくまで第三者視点で語られており、しかも、ぱっと見、今どの時系列にいるのか分かりづらい場面もいくつかあった。形式的には凝っているが、それによって何かが深化しているようには感じられず、少なくとも本作でのこの手法に有効性を見出すことができなかった。
キャラクター描写が軽薄
アンドリュー・ガーフィールドとフローレンス・ピューというスター俳優の魅力に頼り切っている印象が否めず、人物の掘り下げが足りない。
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二人が恋に落ちた理由が不明瞭。一目惚れというわけでもなさそうなのに、なぜ惹かれ合ったのかが描かれない。トビアスがコーンフレーク会社に勤めており、アルムートが料理人という設定から、“食”を介したアスピレーションの共鳴なのか?と一瞬思ったが、二人がそれについて語り合う場面もなく、関連性を見出すことはできなかった。
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アルムートがなぜ料理人を目指したのかが語られず、料理コンテスト自体に余命わずかな人間が「娘にチャレンジする姿を見せるために何かを成し遂げようとしている」以上の意味を感じられない。
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娘が主体的な行動をまったくせず、物語の中で“彼らに子どもがいる”という記号としてしか機能していない。病気を伝える場面など、子どもなりのリアクションを描く余地はあったはずだ。
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「子どもは要らない」とはっきり語っていたアルムートが、いつの間にか子どもを欲しがるようになる。その心の変化の描写がまるでない。あれほど明確に自らの意思を示していた女性が考えを変えるほど、トビアスという人物に“人を動かす力、魅力”があるようには見えなかった。むしろ、アルムートが卵巣の病気を患ったことによって、“子ども”という存在を意識し始めたようにも受け取れてしまい、描写として不自然だったと思う。
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これはキャラクター描写というよりも重箱の隅をつつくような脚本への指摘だが、コンビニでの出産シーンの際に渋滞の中で放置された車はどうなったのか…?
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アルムートが料理コンテストに挑むことが、治療をやめることを意味していたのだとすれば、その覚悟を観客にももっとはっきりと伝わる作りにするべきだったと思う。身体に負担がかかることは理解できるが、料理コンテストへの出場が彼女にとってどれほど過酷なものだったのかが、描写からは今ひとつ伝わらなかった。フローレンス・ピューは髪を剃り、鼻血や嘔吐といった描写もあるため、俳優としてはしっかり頑張っていると感じる一方で、それでも彼女の佇まいには生命力がありすぎて、病の重さが伝わりきらなかったという印象がある。
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コンテストの結果が示されないまま物語が終わるのも、正直もやもやした。もちろん、アルムートにとってコンテストの勝敗は重要ではなかったのだろう。だが、彼女は“英国代表”という大きな肩書きを背負って出場している以上、結果を放棄するようにその場を立ち去る姿には、ある種の無責任さすら感じてしまった。命を削ってまで挑むと決めたのなら、その決意の果てがどこに向かっていたのか、せめてそこだけでも観客に届けるべきだったのではないか。
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アルムートが髪を剃ったあと、それに合わせて髪を剃るのが夫のトビアスではなく、職場の後輩というのも何故そのような展開にしたのか解せなかった。この演出によって、むしろトビアスの存在感の薄さや、人物像そのものに疑問符が浮かんでしまった…。
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個人的にここが最も許せなかったポイントなのだが、アルムートがバイセクシュアルもしくはパンセクシュアルであるという設定に、物語上の必要性があったのか大きな疑問が残った。この属性が彼女の人生観やパートナーシップのあり方にどう影響していたのか、最後まで明確に描かれず、それによって物語が深まったとも感じられなかった。結果として、「クィアの彼女が、子を産むために死ぬ」という構図になってしまっており、もし彼女のクィア性が単に「彼女の性格的な何かを象徴するための属性」として消費されたのだとすれば、あまりにも誠実さに欠けていると言わざるを得ない。さらに、「クィアの女性が悲劇的な結末を迎える」という古くからあるステレオタイプ*1を再生産していること、そして「子どもを欲しがって美しく死ぬ」という筋立てが、クィアや“子どもを持たない選択”への偏見を無自覚に強めているようにも思え、全く許容できない。
おわりに
ただの過剰な余命宣告からのお涙頂戴ものにはしたくなかったのだろうが、さまざまな要素を省いた結果、むしろ物語が難解になり、脚本の不足点が目立つ仕上がりになっていたように感じた。また、現実世界に確かに存在する問題を扱っていながら、キャラクター描写の掘り下げが甘く、特にアルムートのクィア設定とそれに続く展開には、慎重さや配慮を欠いており、正直辟易した。
なお補足しておくと、筆者はこのテーマの恋愛映画そのものがジャンルとして苦手というわけでは決してない。
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