Left After the Credit: 思惟のフィルムノート

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【ネタバレあり】コッポラが186億円かけて描きたかった未来像とは?—映画『メガロポリス』感想

画像引用元: 映画.com『メガロポリス』フォトギャラリー(画像15) より引用(著作権は CAESAR FILM LLC に帰属します)

(原題:Megalopolis / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 138分 / フランシス・フォード・コッポラ監督 / アメリカ)
※本記事は映画『メガロポリス』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。


本作の公開を楽しみにしていた。まず、アダム・ドライバーのファンであること、そして何よりも、コッポラがワイナリーを売って186億円を投じて制作したにもかかわらず、評判は芳しくなく、興行的にも失敗しているという背景に興味を引かれていた。予告編を見る限りでは、豪華絢爛な映像の中で、アダム・ドライバー演じる主人公カエサルによる説教が2時間強繰り広げられるのではないかという印象で、物語にはあまり期待せず、IMAXの映像体験だけでも楽しめればという気持ちで臨んだ。

 

映像について

期待していた映像表現は、正直その期待を上回った。“ニューローマ”と呼ばれるニューヨークの街並みは、近未来風のCG表現と古代ローマ的な装飾・衣装・ヘアメイクが融合した世界観で、まさに“エピック”と言うにふさわしいスケール。雨の中に浮かぶ巨大広告など『ブレードランナー』的な既視感のある要素もあったが、ルックの豊かさとバブリーな装飾、目まぐるしい変化によって、1秒たりとも飽きる暇はなかった。カエサルが薬物を摂取したあとのドラッギーな映像、歌手ウェスタ(グレース・ヴァンダーウォール)が月型のオブジェに乗って演奏する幻想的な場面、3分割されたスプリットスクリーンが動く編集など、視覚的な実験精神は非常に楽しかった。映像だけでも鑑賞の価値があったと思う。

 

主人公カエサルについて

海外レビューでも脚本の不備が指摘されているが、とりわけ主人公カエサルのキャラクター造形が最後まで掴めなかったことは大きな問題だと感じた。彼が掲げる理想都市「メガロポリス」が、何を理想としているのかが具体的に描かれず、終始曖昧だった。説明される内容は「病院から劇場まで5分で移動できる」「直線的な都市構造」などに留まり、彼が発明し、ノーベル賞を受賞した物質“メガロン”も、終盤で動く歩道として使われる程度。映像を投影できる服の素材や皮膚再生などへの応用例も示されるが、都市の未来像とは関連性がなかった。

また、カエサルは時間を止めるという超人的な力を持っており、それは芸術家が表現することで時を制し、未来を構想することが可能な存在としての象徴なのだろう。だが、その能力は物語上でまったく機能せず、象徴としての重みすら曖昧なまま終わってしまったように感じられた。

演技面でもアダム・ドライバーは平坦で、周囲の濃いキャラクターたちに押され気味だったのが惜しまれる。(アダム・ドライバー自身は「人生最高の撮影だった」と本作にかなり好意的なコメントを残しているが……*1

 

ニューローマとニューヨーク

本作は、古代ローマと現代アメリカが共和制国家として同じ道を歩むという前提で構想されている。クローディオ(シャイア・ラブーフ)は、トランプ的なポピュリストとなってゆくが、結局、彼は政治家の道を諦める。しかし、トランプが大統領として再選し、更なる分断が広がりつつある2025年のアメリカを鑑みると、現実の方がすでにもっと酷いという印象が否めなかった。

また、民衆はフェンス越しやデモの背景としてしか描かれず、物語は支配者層のいざこざに終始する。そのため、観客である自分との接点が希薄に感じられた。

コッポラは本作を「皆さんのためになる作品を作った」と語っている*2が、正直なところ「これを観て我々はどうすればよいのでしょうか…」という戸惑いが残った。

 

女性キャラクターについて

女性キャラクターの描写は気になる点がいくつかあったので以下に記したい。

歌手ウェスタが結婚式で処女オークションにかけられる場面は、フェイクビデオや処女性神話の批評的視点があるとはいえ、年齢詐称でバッシングを受けた後に彼女が物語からフェードアウトしてしまったため、不快感は否めない。

ワオ・プラチナム(オーブリー・プラザ)は権力志向が明確で、カエサルを捨ててクラッスス(ジョン・ヴォイト)との結婚を選ぶ姿にはむしろ清々しさを感じ、途中からは彼女に感情移入すらしていた。しかし、最終的にクレオパトラの格好で殺されてしまう展開には落胆した。男たちの欲望は肯定され、大したお咎めも受けない一方で、彼女だけが「悪女」として制裁を受ける構図が浮き彫りになっていた。「強くあろうとする女性=排除される」という歴史的にクレオパトラが担わされた悪女の象徴としての役割を、ワオに再演させたのは、コッポラの皮肉であれば良いのだが、果たして……。

最大の問題はジュリアである。序盤では同性の恋人が登場し、家父長制的なシステムへの抵抗を示していた彼女が、なぜかカエサルと恋に落ち、結婚・出産を経て従来のシステムを体現する存在へと変貌する。この展開はストレートウォッシング*3的でもあり、異性愛・結婚・出産を未来の希望として描くラストは若干前時代的な価値観の押し付けに感じられた。序盤、ジュリアがカエサルに「未来に残したいシステムは?」と問うと、彼が即答で「結婚」と返す。このシーンは筆者にとって衝撃的だった。本作が何を伝えたいのか必死に喰らいつこうとしていた思考が、その瞬間ぴたりと止まり、しばらく記憶が飛んでしまったほどである。(もちろん、本作を最終的に継承される家族の話に帰結させ、最愛の妻・故エレノアに捧げたという点においては美しさも感じるのだが…)

パンフレットによると、ジュリア役のナタリー・エマニュエル自身もこのキャラクターの変化に戸惑い、演じるのが難しかったと語っている。加えて、複数のキャストが撮影時にコッポラに明確な演出ヴィジョンがなく即興的に進行していたと述べており、混乱があったことが窺える。また、コッポラによる現場でのセクハラ行為も報道されており*4、その点も見過ごせない。

 

おわりに

否定的な意見が多くなってしまったが、個人的には本作をそれほど嫌いにはなれない。期待していた視覚的な刺激はしっかり得られたし、映画館でなければ観る機会はもうないだろうから、もう一度観に行くつもりである。カエサルの理想が曖昧であるように、コッポラが描こうとした未来像も結局は掴みきれなかったが、それゆえの混沌や不可解さ自体がこの作品の魅力なのかもしれない。それに、筆者のように未来に希望を持てない世代が増えているこの時代に、私財を投じてまで人類の希望を提示しようとしたコッポラのアーティスト精神、そしてその楽観とポジティブさには、純粋にリスペクトを抱かずにはいられないのだ。

 

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