Left After the Credit: 思惟のフィルムノート

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【ネタバレあり】演じることは、誰かを理解しようとすること―映画『カーテンコールの灯』感想

画像引用元: 映画.com『カーテンコールの灯』フォトギャラリー(画像20) より引用(著作権は Ghostlight LLC. に帰属します)

(原題:Ghostlight / 2024年製作 / 2025年日本公開 / 115分 / ケリー・オサリヴァン監督、アレックス・トンプソン監督 / アメリカ)

※本記事は映画『カーテンコールの灯』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。

 

脚本・共同監督を務めたケリー・オサリヴァンの前作『セイント・フランシス』が非常に好みだったこともあり、本作にも大きな期待を持って鑑賞した。前作同様、難しい題材を扱いながらも、過度にドラマチックにすることなく、軽やかで誠実な語り口で、多くの観客の胸を打つ作品に仕上がっていた。

 

あらすじ

舞台はアメリカの地方都市。ある出来事をきっかけに家族関係が悪くなり、孤立を深めていた父・ダン(キース・カプフェラー)は、ひょんなことから地元の小さな劇団に関わることになる。やがて彼はシェイクスピア『ロミオとジュリエット』のロミオ役を務めることに。演じることを通じて自身や他者と向き合い始めたダンは、閉ざされかけていた家族との関係にも少しずつ変化をもたらしていく。

 

セラピーとしての演劇

物語序盤、家族がある訴訟を抱えていることが仄めかされるが、やがて、それが長男の死に関する民事訴訟であることがわかる。家族はその喪失をまだ受け入れきれず、関係は崩壊寸前だ。

ダンが参加する劇団では、シアターゲームを取り入れたスタイルが採用されており、参加者同士の心理的安全性や対話が重視されている。それは、感情表現が不器用なダンにとって、まるでセラピーのような効果をもたらしていく。

 

「死を美化するな」

劇団が取り組む演目『ロミオとジュリエット』の悲劇的な結末に、ダンは強く動揺する。実は彼の息子は恋人と心中を図り命を落としており、生き延びたその恋人の家族をダンは訴えていたことが明かされる。

彼は劇の結末に納得できず、「死を美化するな」と語り、結末の改変を提案する。このやり取りは、フィクションにおける死の描き方や、その倫理を問う場面としても印象的だ。本作もまた、死や喪失をドラマチックに消費するのではなく、それを抱えながら生きていく人の小さな回復のプロセスに誠実に寄り添っている。

 

「演じること」=「他者を理解しようとすること」

リハーサル中、ダンはラストシーンを演じることができない。「なぜロミオが心中を選ぶのかわからない」からだという。すると、同じく劇に参加することになった娘・デイジー(キャサリン・マレン・カプフェラー)が「彼は孤独で絶望していたんだ」と語る。「彼のことをずっと考えているから、わかる」と続けるその言葉の「彼」は、ロミオであり、そしてもちろん彼女の兄のことでもある。

“演じる”とは“理解しようと努める”ことだ。他者になりきるためには、自分を解体した上で、その人物を客観的に見て、想像する必要がある。彼はロミオを演じることで、自死に至った息子の気持ちを理解しようとする。そして、その営みは、私たち観客が映画や演劇を観るときに、登場人物の痛みや喜びを想像することとも通じる。

 

有害な男性性の脱構築としての演劇

証人尋問の場面で、ダンは初めて自らの後悔と悲しみに言葉を与える。「自分が息子に自由を与えなかったから、こうなったのではないか」と。そして相手の家族に対して、「私たちが逆の立場だったかもしれない。君が生き残ったことを“よかった”とは言わないが、彼の死は君のせいではない」と語る。

これまで「感情を抑える強い男」であろうとし、家族とすら対話を避けてきたダン。訴訟という形で悲しみを外に向けていた彼が、少しずつ自身の感情と向き合い、殻を破っていく。

 

大きな救済はない、けれど

劇は無事に終わるが、物語に劇的な救済は用意されていない。トラウマや悲しみ、そして何より死は“なかったこと”にはならない。しかし、それを少しずつ言葉にし、受け入れてくれる誰かと共有することで、人は自分自身をも理解し、明日を見出すことができる。
この描き方には大いに共感する。内へ内へと沈み込んでも、そこに救いはないし、かといってカウンセラーとの対話によって劇的な変化が起きるとも限らない。

本作では、地元コミュニティの劇団というサードプレイスが、そのプロセスをそっと支えている。
そして最後、家族は同じ家へと帰っていく。ささやかではあるが、ようやく喪失の悲しみを受け入れ、気持ちがひとつに重なった家族の姿には、たしかな希望が宿っていた。

 

役者陣について

ダンを演じたキース・カプフェラーの演技は本当に素晴らしい。「演技が下手な人が、下手な演技をしている演技」を自然に見せる難しさを感じさせないほどだ。また、ダンの妻を演じたタラ・マレン、娘役のキャサリン・マレン・カプフェラーは、実際に彼の家族であり、劇団員たちも地元の実在する劇団のメンバーなのだという。そうした背景が作品全体に温かみを与えていた。

 

おわりに

ケリー・オサリヴァンは、本作を制作するうえでケネス・ロナーガンの『マンチェスター・バイ・ザ・シー』を参考にしたと語っているという。確かに、癒えることのない喪失へのまなざしや、その中にもふと紛れ込んでしまうユーモアには共通点がある。
ただし本作には、わずかではあるが確かに“明るい道”が示されており、制作者たちがフィクションと他者とのつながりの力を信じていることが伝わってくるようで心強い。
ケリー・オサリヴァンの語り口を、私はこれからも信頼していきたい。

 

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