Left After the Credit: 思惟のフィルムノート

アート系・インディペンデント系の海外映画を中心に、新旧問わず感想や考察を綴っています。

【ネタバレあり】役割を演じるとき、「私」はどこへ消えるのか-映画『アルプス』感想+考察

画像引用元: アルプス | ヨルゴス・ランティモス | 動画再生 | JAIHO より引用(著作権は Haos Film に帰属します)

(原題:Alpeis / 2011年製作 / 93分 / ヨルゴス・ランティモス監督 / ギリシャ・フランス・カナダ・アメリカ合作)

※本記事は映画『アルプス』のネタバレを含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。

 

ヨルゴス・ランティモスによる、ギリシャ時代最後の長編。脚本は『籠の中の乙女』『ロブスター』『聖なる鹿殺し』など、ランティモスと何度もタッグを組んでいるエフティミス・フィリップと共同で書いている。本作はベネチア国際映画祭で最優秀脚本賞を受賞した。日本では長らく未公開だったが、実は『籠の中の乙女』の次に作られた作品である。

 

あらすじ

「アルプス」と名乗る謎のグループは、身内を亡くした人のもとに現れ、故人の“代役”として振る舞うサービスを提供している。その一員である女性看護師(アリアン・ラベド)は、若くして亡くなったテニスプレイヤーの娘役として依頼人の家族や恋人と過ごすうちに、次第にその生活にのめり込んでいく。やがて彼女はグループのルールを破ったことで追放されてしまい、「演じること」と「自分自身」の境界を見失っていく。

 

人は代替可能か?

人間は、日々「役割」を演じながら生きている。職場、学校、家庭、恋愛――それぞれで与えられた立場や期待に応じて、私たちはそれらしく振る舞っている。
その“役”は、ナース服などの制服、新体操のレオタードのような記号的な要素によっても強化される。それを身にまとうだけで、自然とその役になりきってしまう。裏を返せば、その記号さえ真似れば、誰でもその役を演じることができ、どんな人でも代替可能であると本作は暴いている。それは同時に、アイデンティティを揺るがす、非常に不穏な問いかけでもある。

 

「アルプス」という皮肉な名前

グループの名前「アルプス」は、リーダーによれば「他のどんな山にも代えがたい特別な山=アルプス」のように、「代替不可能な存在」を象徴して名付けられたという。しかし実際の活動は、「自分が代わりになれる存在」を見つけ出し、乗っ取ることだ。この名付けの背景と行動内容の乖離が、皮肉にも本作の主題を端的に表している。

 

境界が溶けていく主人公

主人公の看護師は、テニスプレイヤーの代役としての生活を続けるうちに、自らのアイデンティティを見失っていく。ルールを破り、アルプスから追放された彼女は、その役に執着するあまり、依頼人の家に不法侵入してしまう。
さらに衝撃的なのは、自宅で過ごす彼女の「父親」の股間に、突如として手を伸ばす場面だ。彼女はその直後に平手打ちを受けるが、その「父親」すらも実は依頼人であり、彼女が娘役として一緒に暮らしていただけなのでは?と思わせる描写でゾッとした。
また、会話シーンでは、首から下だけが映し出されるショットが何度か登場する。顔=個人の証明が排除され、「誰が誰であるか」が意味を失っていく様子が、視覚的に強調されていると感じた。

 

『籠の中の乙女』との共通点

本作『アルプス』は、前作『籠の中の乙女』と同様に、権力をもつ男性がルールを定め、それに従う女性たちが次第に壊れていく構図が描かれている。
『籠の中の乙女』では、父親が絶対的な支配者として家族内の秩序(という名の虚構)を作り出し、娘たちは外の世界を知らぬまま、家庭という檻の中で生かされていた。
『アルプス』においても、グループの男性たち(コーチや救命士)が、女性たち(看護師と新体操選手)の活動のルールを一方的に決め、ときに暴力的に、メンバーの「越境」を罰していく。勝手にクライアントと接触することは禁忌とされ、看護師が逸脱するに至った理由よりも、「組織のルールに従ったかどうか」が重視される。このように、男性的な権力構造と抑圧的な規律が、女性たちの自由や感情を抹消していく構図が、両作には共通していると言える。そしてその構造の中で女性は「役割」を演じるよう強いられ、自己を喪失し、壊れていく。それはまさに、社会的に与えられた「女性としての役割」や「求められるふるまい」によって本来の個人性を奪われる構造そのものであり、強烈な暴力性がそこにはある。

 

おわりに

『アルプス』は、「誰かの代わりになる」という行為が、やがて自己の崩壊へとつながっていく過程を描いている。演じることで一時的な安心を得ることはできても、それは次第に、「演じなければ存在できない」という依存へと変化していく。

アルプスの活動は極端な例だが、他人の期待に応えようと役割を演じることは、私たちが日常的に行っていることだ。演技にのめり込んで自分自身を見失う危うさは、決して他人事ではない。

本作は依頼者側の視点や感情をあえて描かない選択をしている。彼らがアルプスのサービスをどう受け止めていたのか、故人の代役を通じて癒されたのか、それとも違和感を抱いていたのか、そうしたことは一切語られない。その「空白」こそが一番不気味だ。まるで「喪失にどう向き合うか」という根源的な問いをすり抜け、ただ“それらしく”振る舞うことで悲しみを制度化しようとする社会の冷たさを体現しているかのようだ。

ちなみに、本作の主演のアリアン・ラベドはランティモスのパートナーであり、彼女の初長編監督作『九月と七月の姉妹』の日本公開が控えている。楽しみだね。

 

sundae-films.com

 

応援の気持ちで1日1回
クリックいただけると嬉しいです📽️

※ タグはブログ内検索リンクです。