画像引用元: 映画.com『FLEE フリー』フォトギャラリー(画像13) より引用(著作権は Final Cut for Real ApS, Sun Creature Studio, Vivement Lundi!, Mostfilm, Mer Film ARTE France, Copenhagen Film Fund, Ryot Films, Vice Studios, VPRO に帰属します)
(原題:Flee / 2021年製作 / 2022年日本公開 / 89分 / ヨナス・ポヘール・ラスムセン監督 / デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フランス合作)
※本記事は映画『FLEE フリー』のネタバレ(結末に触れる内容)を含みます。また、記載されている考察・解釈は筆者個人の見解です。
先日感想をアップした『フォーチュン・クッキー』の主人公がアフガニスタンからの移民という設定で、演じた俳優もアフガン復権時にアメリカへ亡命してきた元ジャーナリストだった。そういえば以前話題になっていたアフガニスタン難民のドキュメンタリーである本作を観ていなかったことを思い出し、遅ればせながら鑑賞した。
概要
本作は、アフガニスタン出身の語り手・アミンの人生を、アニメーションの形式で描くドキュメンタリーである。1980年代、アフガニスタンではソ連の侵攻と政変により、政治的混乱と内戦が激化していた。市民生活は崩壊し、国家による弾圧や徴兵、失踪といった恐怖が日常化する中、多くの人々が国外への脱出を余儀なくされた。本作のアミンの家族もそのひとつであり、政権批判と見なされた父は突然連行され、消息を絶った。こうした状況の中で、彼らはまず、ソ連崩壊直後のモスクワへと逃れ、やがて命がけの亡命を重ねていくことになる。
本作はドキュメンタリーでありながら、全編がアニメーションで構成されている。アミンのプライバシーや安全を守るため、実名や地名を変更した上で、あえてアニメーションという手法が採られているのだという。
通常のドキュメンタリーであれば、ナレーションと共に、当時のフッテージを挿入する形式が一般的だろう。しかし本作では、アミンの過去の記憶がすべてアニメーションで、まるでドラマのように再構成されており、観客が彼の人生をより身体的に「追体験」できるという副次的な効果も生まれていた。
また、アニメーションという形式は、単に顔を隠すための手段ではなく、記憶の曖昧さや感情の揺れ、語られなかった恐怖の質感までも描き出すために、とても有効な手法だったと感じた。
現実の映像では表現しきれない“記憶の中の風景”を、絵だからこそ輪郭を曖昧にしたまま描ける。そのことが、アミンの語る過去にリアリティと余白の両方を与えていたように思う。
想像を絶する亡命の道のり
彼がアフガニスタンからロシアへ逃れた後、すでに長男が移住していたスウェーデンを目指して、母・次男・姉2人・アミンで旅立とうとするのだが、その道は想像を絶するほど過酷だった。
まず、金銭的な問題から家族全員で一度に脱出することはできない。そして姉2人が先に、船のコンテナに詰め込まれて亡命することになるのだが、コンテナには数十人が密封された空間に押し込められ、酸素が足りず、彼女たちは閉じ込められたまま目的地へと到着する。姉たちは命こそ助かったものの、ショックでしばらく言葉を発することができなくなっていた。
その後、母・次男・アミンも漁業用の小さな船で亡命を試みるが、ボートが破損して浸水し、命の危機に陥る。そこに大型客船が現れ、救助されるかと思ったのも束の間、乗組員によって海洋警備隊に通報され、彼らはエストニアで拘束されてしまう。そして半年の収容生活を経て、再びロシアへ送還される。ロシアでは賄賂を渡せば解放してもらえたという。そんな中、次こそは絶対に失敗できないと決意した家族は、高額ながらも比較的安全な空路で、アミンをひとりで脱出させる決断を下す。
アミンの家族が無事に欧州へ辿り着くまでの道のりは、「過酷」という言葉では到底足りない。 そして、不十分な体制の中で動く密輸業者や、アミンたちを差別し、賄賂で見逃すロシアの警察たち*1。たしかに彼らは「悪」だ。アミンも彼らを「サイコパス」「クソ」と言って非難する。
しかし、祖国にいるというだけで命を狙われ、不本意な戦争に駆り出されるような状況下で、果たして彼ら“だけ”を悪として責めることができるのだろうか。
誰かの手を介さなければ生き延びることすらできない。そんな、最低限の人権すら脅かされる極限状態にある難民。たとえ違法であっても、それが唯一の「生存ルート」だった人々を、そして不純な動機でも結果的に彼らの命を救った人々を、私たちはどこまで非難することができるのか。
もちろん、国家間の問題や制作者たち自身の身の安全を考えれば、特定の国家を明確に非難する描き方は難しく、密輸業者や腐敗した警察を「中心的な悪」として描かざるを得なかったのは理解できる。
しかしその結果として、構造的な問題――つまり国家や制度の問題はやや後景に退き、個人の悪意ばかりが強調されてしまっていたようにも感じられた。
「同性愛」という言葉がない国で
アミンは幼いころから、男性に惹かれる自分を自覚していたという。しかし、イスラム教国家であるアフガニスタンには、「同性愛」という言葉自体が存在しなかったそうだ。特にタリバン政権下では同性愛は厳しく禁じられ、2021年以降、タリバンが再び実権を握ってからは、LGBTQ+への弾圧はさらに強まり、同性愛者であるとされる人々が処刑されたという報道もある。
そもそも「同性愛」という言葉すら公的な語彙として存在しない中で、自分の性的指向を自覚すること自体が困難であり、誰にも相談できないままだったアミンの恐怖と困惑は、想像を超えるものだっただろう。
そんな中、デンマークへ無事に移住したアミンが、病院で「同性に惹かれるのを治す薬がほしい」と話すシーンは胸が痛くなった。そして、アミンはスウェーデンで再会した兄や姉に、図らずも自分が同性愛者であることをカミングアウトする。亡命のシーンと同じくらい、このシーンにも緊張感があり、心拍数が上がった。もし彼がこの告白をきっかけに、今では家族と疎遠になってしまっていたら……と不安になったからだ。しかし、兄は「知っていたよ」と受け止め、アミンにお金を渡してゲイクラブへ連れて行ってくれる。そのやり取りに、思わず涙が出た。
逃げ延びても消えない傷
アミンはこのような過酷な経験を経て、今ではアメリカからポスドク研究員としての打診が来るほどのキャリアを持つ。マルチリンガルでもあり、計り知れないほどの努力をしてきたことがうかがえる。そして恋人とも結婚を約束している。
しかし、心の中はずっと閉ざされたままだという。デンマークへひとりで亡命する際に「家族は全員死んだと言え」と指示され、亡命後もずっと送還されてしまう不安に駆られ、それを守り続けてきた。それは、ずっと自分を偽り続けることでもあり、アミン自身は「心が壊された」と語っていた。今では、母語であるダリ語も忘れかけているという。
彼だけではない。長男も、長年付き合っていた恋人がいたにもかかわらず、家族の亡命資金を優先するためにその関係を諦めた。子どもを望んでいた恋人は、彼のもとを去ってしまったという。
アミンは自分を守るため、他人を警戒し、自己開示に消極的だった。常にキャリアを優先してきたというが、それはどれほど孤独な選択だったのだろうと思う。彼は恋人に、ポスドク職のためアメリカへ行くことを告げないまま、新居の内見に出かけてしまう。そのとき、彼はこのままずっとキャリアを優先して自分を閉ざしたまま、孤独を抱えて生きていくのかと、自身と向き合う。
そして、インタビューを機に彼は映画の最後に「愛」を選ぶ。恋人と結婚し、一緒に人生を築くという約束を交わすのだ。
彼の過去の出来事やトラウマは、決して消えることはないだろう。それでも、彼はようやく「よそへ行かずに済む安全な地」、すなわち彼にとっての「故郷」を見つけたのだ。
おわりに
タイトルの『FLEE』=「逃げる」という言葉は、アミンの人生そのものを象徴している。 国から、そして何よりも自分自身の過去から――彼はずっと“逃げる”ことでしか生き延びられなかった。 だがこの映画の中で、彼ははじめて「逃げずに語る」ことを選び、自らの物語を取り戻そうとする。 その選択が、どれほどの勇気を要することだったかを思うと、言葉にならない。彼が語ってくれたことで、私たちは彼の難民としての物語を知ることができた。世界に向けて語ってくれたことに、最大限の敬意と感謝を伝えたい。
そして、この作品を通して、「今も逃げ続けている人たち」の存在を思わずにはいられなかった。アミンのように命がけで国を離れた人々は、今も世界に、そして日本にもいるという現実。自分の身近にいる誰かが、今日も差別や偏見の中で、何も語らずに「生き延びる」ことだけを選ばざるを得ないでいる。
この映画は、そんな現実に対して無関心ではいられないと、改めて気づかせてくれた。
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↓作中で流れる「Take On Me」がとても印象的だった。どこか遠くの存在としてひとくくりにされがちな「難民」も、同じ時代を生き、同じヒットソングを聴いているのだという当たり前のことに、はっとさせられた。
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*1:なかには賄賂を渡せない少女に性的暴行を加えているような警官すらおり、到底許される存在ではない